先日、インド人のヨガの先生がこんなことを言っていたよという、おもしろい話を聞きました。
わたしも17年くらい前にその先生を見たことがあります。とても明るい先生だったと記憶しています。
ちょっと無茶な体勢でポーズをキープしなければいけない時に、ユーモラスなその先生は「インドは no choice だから」という言いかたをされたそうです。
「それって “やるしかない” と訳すのか、”とにかくやれ” “いいからやれ” みたいに訳すのか、日本語にするがむずかしいくないですか?」とわたしがお尋ねしたら、そうなのよね、と。
そのときに
インドでは、「もう決まってる」ことが多いからって。
結婚相手も選べないし、みたいなことらしいです。
と教えてくれました。
そうなんだよなぁ、そこがベースの違いとして大きいんだよなぁと思いました。いまはインドの社会もずいぶん違うのだろうけど、生き方のベースってのがある。
与えられたことをやる(仕事を選べない)とか、義務を果たす(そういうことになっている)とか、そういうベースの違いがある。
だから、自由はなくても自由意志はあるという考えかたになるのでしょう。
日本で日本人として生活をしながら「自分で選んで失敗したかな」と思っているところにインドの言葉に頼って掘り下げても、 sva dharma や sva karma のような言葉を持ち出しても、上滑りしていると感じることがあるのは、やっぱりここが大きい気がしています。
誰かにやらされていることにして棚上げした自由意志の存在を見つけたときに、別の誰かのせいにするループをやめられるか。というくらいの変換が必要です。
自由はなくても自由意志があると思って生きている人って、最強なんですよね。
久しぶりにこの感じを思い出しました。
通すといったら通すのだ。