うちこのヨガ日記

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Hatha Yoga Pradipika (English Edition) Kindle版 Swami Vishnuswaroop 翻訳


たいへん現代的な英訳で読める「Hatha Yoga Pradipika」です(以下H.P.)。Swami Vishnuswaroop さんというかたの訳。電子のみですが、まったくありがたい時代です。
わたしはヨーガの古典はなるべく日本語と英文の両方で読むようにしています。日本語は中国から漢字をもらっているので、自然に仏教用語が混ざります。ヨーガも仏教もインドのものですが思想や学派という区切りでいうと別ものだったりするので英語を介したい。英訳動詞を比べるとまた「ここでこの語を選ぶということが、根がポジティブだ(ネガティブだ)」などのところが気になってしまったりするのですが、それはさておき英文で読むことで「認識を仏教的な倫理道徳方面へ引っ張られるもんだい」を回避できます。

ハタ・ヨーガ・プラディピカーの日本語版は佐保田鶴治先生のものが手元にあり、英文はインドの本屋で買った超豆本(Pancham Sinh 英文訳)と併せて読んでいたのですが、まえに「英語版では左道密教部分を語っていなかった」というトピックに書いたとおり、Pancham Sinhさんの英訳版はムドラーの第三章の一部がカットされています。


これにはいろんな意図があると思うのですが、今回紹介する Swami Vishnuswaroop さん版はそこをカットしていません。冒頭でこのように書かれています。

It is seen that some of authors/translators of Hatha Yoga Pradipika and some classical texts on yoga and tantra have not included the original Sanskrit verses on vajiroli, amaroli and sahajoli mudras in their books which are the practices of(tantric)sexual acts. They have considered that these mudras fall in the category of 'inpure sadhana(practice)'and they are practiced by 'low-class tantrics'.

ここでは「low-class tantrics」と書かれていますが、これを読んでわたしは「ああなるほど日本は密教が仏教に乗っかって先に入っていたから、性タントラ知識の面では先進国だったのか」と思いました。歴史の伝わりかたって、おもしろいですね。(ご参考までに
わたしはこの部分が英文世界でカットされる理由を「女性の人権問題」と思っていたのですが、そういう感じでもないようです。わたしははじめて「ハタ・ヨーガ・プラディピカー」を読んだとき、


 これ、田嶋陽子さんが読んだら発狂するだろーなー


なんて、思ったんですよね…。もともと「女性は男性に娶られなければ価値がない」みたいな表現はインドの古い書物のあちこちにありますが、この世界では「解脱の練習のために用意する道具」になっていて、あとでとってつけたように協力者のそんなあなたはりっぱな「ヨーギニー」みたいな感じで、なんだかとんでもない。現代の感覚でふつうに読むと、本気で怒る人も多いでしょう。なので、あなたのなかの田嶋陽子さんを封印して読まなければなりません。上野千鶴子さんはニヤリとするかな。わかりますかな、この感じ。


と、ここまでは予備知識みたいな話で、
この Swami Vishnuswaroop 訳はどうかという話ですが、本文訳中にいれるカッコ書きがたいへん親切です。今日は3つの訳を並べてみます。
引用する訳は、上から以下の順です(敬称略)


今日は特選で3つ選びましたが、H.P.はやっぱりラストがいい。アーサナ・呼吸法・チャクラ・神との一体化などあれこれ説明しまくった後のラストが。なのでまずは最終節を紹介します。

気が中央の道(スシュムナー気道)を通ってブラハマ・ランドラの洞穴に流入しないかぎり、また気の風を緊縛する結果として精液が不動とならないかぎり、まためい想のなかでこころが自己本来(真我、梵)の姿に等しくならないかぎり、どんな知識を説こうとも、それは慢心から出た偽りの饒舌にすぎない。


As long as the Prana does not enter and flow in the middle cannel and the vindu does not become firm by the control of the movements of the prana; as long as the mind does not assume the from the Brahma without any effort in contemplation, so long all the talk of knowledge and wisdom is merely the nonsensical babbling of a mad man.


So long as the prana does not flow in madhyamarga(literally, the middle passage i.e. susumna),so long as the bindu(seminal fluid)is not stabilized by restraining prana vayu(the vital energy or life force),so long as the mind does not naturally become of a similar nature to the object contemplated upon(the Ultimate Brahman)in maditation, then he who talks of spirituial knowledge and wisdom is a hypocrite and just does nonsense chatting in vain.

佐保田先生はここで「めい想」とされています。漢字にしちゃうとそこに意味が出てしまうところは避けている。
最後のちょっとおもしろいところの原文にある「dambha」は現代の辞書だと英語で「deceitful」とか「hypocrite」と出てくるので、前者だと佐保田先生とパンチャム先生、後者だと偽善者とか言行不一致の人という感じでヴィシュヌスワループ先生に近いです。後者はそのまえが「he who talks of spirituial knowledge and wisdom」となっていて、「スピリチュアル・グルにご用心!」という感じがあって、なんだか現代的と感じました。



次は、わたしがこの訳だけはたいへん日本語化が難しいとおもっている「ヴァーサナ」が出てくる4章22。ヨーガ・スートラとの連動度も密な節です。

心の動きの因となるのは薫習と気息の二つである。この両者のうち一つが消えるときは両者ともに消滅する。


There are two causes of the activities of mind :(1)Vasana(desires)and (2)the respiration(the Prana).Of these,the destruction of the one is the destruction of both.


There are two causes(of fluctuation)of Citta(the mind): one is vasana(desires) and the other is the prana. When one of these two is destroyed,the other is also destroyed.

佐保田先生の訳はそのあとに注釈の訳もついているのですが、読む人の状況として日本では「薫習」自体が思いっきり仏教用語として認識されているので、この「ヴァーサナ」というものはたいへん扱いが難しいです。英文同士を比較すると、前者は「activities of mind」の原因、後者は「fluctuation of mind(=citta)」の原因で、技術書としての言語変換でいうと前者がシンプルなのですが、やはり後者のほうがヨーガ・スートラからの流れとしては奥行きがある。どっちもそれぞれに「感じ」があっておもしろいです。



最後はちょっと韻がおもしろいところをピックアップします。2章18。これは原文が「なんでこんなフレーズ入れたかな」と思うほどおもしろい節です。

それゆえ、あくまでも正しい仕方で気を吐き、あくまでも正しい仕方で気を満たし、あくまでも正しい仕方で気を保留しなければならない。かくして、ハタ・ヨーガの目的を達成することができるのである。
(佐保田先生補記:「あくまでも正しい仕方で」という原文は「きわめて徐々に」と訳してもよい)


The air should be expelled with proper tact and should be filled in skilfully; and when it has been kept confined properly it brings success.


The vayu should be skillfully inhaled, skillfully exhaled and skillfully retained in order to attain perfection.


これは原文がこんな感じで、同じフレーズが何度も出てくるおもしろい文章です。


 ゆくたんゆくたん トヤジェドヴァーユー ゆくたんゆくたん チャ プーライェッ(ト)
 ゆくたんゆくたん チャ バドヒニーヤーデヴァン シッディマヴァープンヤーッ(ト)


この「ゆくたん」は yukti なので skillfully ですが、「ゆくたんゆくたん」のセットが3回も出てくる原文なので、佐保田先生が『「きわめて徐々に」と訳してもよい。』と言いたくなったり、パンチャム先生訳でも tact なんていう小粋な語が使われていのがちょっとおもしろいです。今日紹介しているヴィシュヌスワループ先生の訳は究極削ぎ落とされすぎな感じすらします。
H.P.内ではほかに3章31に「やーめやーめ でぃねでぃね」というのがあり、ここは「くりかえしくりかえし」というような感じで、日本語でもこのように「くりかえし行う」と「くりかえしくりかえし行う」は違うので、そういう感じです。こういう繰り返しの妙みたいなものをあっさり訳すのは、たぶん訳す人もためらうだろうな、と思います。内容を伝えるだけの一筋縄でいかないところがこの種の書物の魅力でもあるのですが。日本語の文学だと「今日も今日とて」などのフレーズはこれに近い妙があると感じます。


現代に伝わるヨーガの修練はアーサナもプラーナーヤーマもめい想もほとんどのことはこの教典が下敷きになっているのですが、冒頭に書いたような歴史もあって、読む人には柔軟さが求められます。自分は潜在能力がまだ開花していないだけの特別な人間と思いたい人には危険な書っぽいところもありますが、わたしのような者が読むと「どうしてそんなに末永く隆々でいたいかねインド人たちよ…」という気分になったりします。
女性が読むときは、先にも書きましたがあなたのなかの田嶋陽子さんさえ封印できれば、たいへん深い教えに満ちた内容で、ハッとするほどすばらしい示唆も多い古典です。


Kindleのみです

Hatha Yoga Pradipika: Light on Hatha Yoga (English Edition)
Divine Yoga Institute, Kathmandu, Nepal (2014-10-31)