うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「もっと早く」は「more than いつ?」(夏目漱石「こころ」読書会での演習より)


今日は夏目漱石の「こころ」のオチに思いっきり触れる内容なので、これから小説を読もうと思っている人は、いますぐブラウザを閉じてください。
読書会ではさまざまな演習をします。小説の中で抽象化されいる表現は「読者の記憶の中での紐付けを試されている」ととらえ、「試されたわたしたち」という立場で多眼演習をします。
「こころ」の読書会は約2年前に東京で2回・関西で1回行ったのですが、時制の表現が難しい小説だったため、テキスト化がずいぶん遅くなりました。
今日は、Kの遺書にあった(という)



 もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう



というフレーズについての演習の共有ログです。これは東京でのディスカッションです。
そもそもこれは、「本当に書かれていたのか」ということまで疑うときりがないのですが、
時制を最新の状態にして拾うと



 Kは「もっと早く死ぬべきだった」という意思を持っていた
 ということを、わたし(先生)は、あなた(書生)に知っておいて欲しい


ということだけが事実です、という小説です。
これはメロウな方向へ堕ちようと思えばどこまでも堕ちる案件なので、ホワイトボードで年表のような時制のわかる図を描きながら話しました。(この質問の設定意図は末尾に書いています)



うちこ:「もっと早く」って、「いつ」よりも早くなんだろう?(投球)


Tさん:Kがもし本当にその言葉を使っていたとしたら、「生まれなければよかった」と思っていると思う。
先生の回想という意味では、先生は「Kが神経衰弱のころに、家に連れてこなければよかった」と思っていると思う。


うちこ:わたしも近いです。この感じ。


Sさん:わたしは、Kは自分を自己否定しながらの人生だったので、もし死ぬタイミングを自分の中で探しながら生きていたとして、もし機会があったと思っているとしたら「親に勘当されたとき」だと思う。


うちこ:それも、わかるなぁ…


Sさん:自分の行きたい道を反対されたときに、死ぬことも選べたかもしれないけど、そのときKはまだ「生」に少し執着があって、あとになって「あの時死んでおけばよかった」と思っているんじゃないかな。


Zさん:わたしは、お嬢さんを好きになったタイミングかと。そうなってしまったことが、自分を扱いきれなくなった、自分の理想像に反した、自分で踏み外したと思っていると思う。


Yさん:生まれてこなかったら何も起こらないし何も感じないので、「生まれてこなければ」ではないと思う。どれということもなく、ずっと持続的に、いろんなときに「もっと」と思っていて、一回ではないんじゃないでしょうか。


(このあたりで「Kの実家の真宗ってどういうものなんですか?」
という質問が出たので、説明をはさみつつ、それも踏まえた話に切り換えました)


うちこ:Kは真宗のお寺の子でありながら、コーランを読んでみたりスウェーデンボルグを読んでみたりして、基本的に輪廻思想はあったのではないかと思うのですが。


Tさん:わたしは、Kは自殺を悪と思っていなかったんじゃないかなと思うんです。輪廻思想があったとしても、死を生の通過点と思っているんじゃないかと。


うちこ:なるほど。


(この投球の理由とまとめ)
Kは肉食妻帯がアリな真宗のお寺の子でありつつ、「それでいいんだっけ?」「坊主って求道者じゃないのか?」というスタンスで、苦しみは先生と出会う前からはじまっています。この「K本人の死生観」とあわせて「親や家との関係」「恋愛感情と裏切りの認識」、参加者が予測するポイントが細かく割れました。
小説の中で、先生はKの遺書について以下の記述をしています。

手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。世話ついでに死後の片付方も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜しく詫をしてくれという句もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。

どこまでが先生の妄想かを、ソースなしに(Kの文章なしに)読ませることで、読者の考えかたがあぶりだされます。ベースはTODOリストのようでありながら、「墨の余り」の文句は「〜という意味の文句」と、あくまで先生の認識です。
ほかの人のイメージを聞くと、同じ文面を読んでもこんなに違うものかというおもしろさがあります。


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