うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

シャンティというのはどういう感じか

人にはいろいろな心の状態がありますが、自分の中でそれを示す言葉のバリエーションが少ないことを知らぬまま年齢を重ねてあれよあれよと数十年。わたしは30代の後半からサンスクリット語の単語にたくさん触れるようになり、こんなふうに "穏やかでない" という心理状況を分解する方法があるんだ…と驚きました。
よく考えるとそのヒントはもう少し前にありました。「怒らないこと」という本を初めて読んだとき、パーリ語というのはドロドロした感情をずいぶん細かく定義してるんだな…と驚きました。

心持ちというのは言葉に当てはめてもらえるだけでだいぶ成仏する。その後、インド思想には心を調味料のようにコントロールして美味くも不味くもできるものだと考える土台のようなものがあると感じるようになりました。

以来、自分の心の中で起こる反応・転変・得た情報を推測で筋立てていく作為・妄想・味付けなどの作用に意識的になることで、以前よりも穏やかさについて考えられるようになりました。その意味についても同様です。今日は「シャンティ(シャーンティ)」について書きます。

 

 

意志の確認への苦手意識

瞑想の練習の中に「サンカルパ」といって短い文章で自分の意志をまとめる作業が入るものがあります。わたしはこれを英語でインド人の先生から教わったので、実際にそれについて考え・まとめるときの脳内言語が日本語になったときにとてもナマナマしさを感じました。そして、シャーンティについても同様。どう向き合っていいかわからない意味を持つ言葉と感じていました。

自分と対話しながら希望や意志を言葉にする行為が多くの人にとってむずかしいということを、わたしはそれまでに何年も企業の評価制度の中で見てきました。高学歴でも多くの人がそれを自己と統合した状態の文章にできない姿を目にしました。そして要領のいい人のすることは検索と引用。
なので日本に帰ってからみなさんに伝えてきたヨーガニドラーのサンカルパ(神聖な誓い)も、「それらしさ」で片づけたくなったりするだろうと、社会背景も含めて想像していました。ですがこの先の人生も検索と引用の思考で生きてくのかといわれたら、「はい」とは言いたくない人が多いだろうとも思います。

── と、そんなややこしい背景がありつつ、ここからは「シャーンティ」の理解についての提案です。

 

意識を顔アイコンでとらえてみる

日本で発達しているコミュニケーション言語に「顔文字」があります。最近だとスマホが主流なので「顔アイコン」かな。目標文章の末尾につけるアイコンをイメージするとわかりやすいかもしれません。
ブログはアイコンが使えないのでちょっと古い表現になりますが、たとえば

 

( ^_^ ) ←これは、他者に対してポジティブ
( ^ _ ^ ) ←これは、さらに好印象を狙ってる?
(´∀`)  ←世間の奴隷になりつつあるかも
(  ̄ー ̄ )  ←しらけてる
( - _ - )  ←いっけん平穏だけど少しちょっとふてくされ始めてる?

 


 こんなふうにとらえて・・・
 以下だと、よりシャーンティ度が高いの、わかりますかね…

 


 (^-^) 

 

 ( ´、ゝ` )

 


こんなふうに、ひとり脳内で末尾にこういうアルカイック・スマイルな絵文字が似合う目標を文章化してみる。わざとらしくにっこりではないものを探すという作業ととらえてみる。

 

 

意志をまとめるのは、めんどう?

「サンカルパ 例文」という検索がたまにあるので、数年前からウォッチしています。サンカルパは他人が決めるものではない(決めようがない)けれど、つい模範解答を探したくなってしまうメンタルが少なくない。そこにはさまざまな背景が含まれているだろうと想像します。平均を探したいのかもしれません。その人にとっては、「平均からズレないこと」「他人から間違いと言われないもの」が平和や平穏やシャーンティに結びつきやすいのかもしれません。
こういう思考が挟まる感覚は、部屋に靴のままあがれない戸惑いと似ているように思います。外国人から「come in」といわれてニヤニヤしながら「う、うん。入る気はマンマンなんだけど...靴を脱ぐのはアリか? って、英語でなんて言うんだっけ?」と一瞬考えてしまうような状態。
サンカルパは例を出して説明したら意味がない種類のものだけど、例文が欲しくなったときに、なんの存在を意識して例文が欲しくなるのだろう…、という疑問そのものに向き合えれば、それはそれでひとつのすばらしい契機です。

 

 

自己to自己の構図がしんどくなると「シラける」という暴挙に出る

自己to自己の構図(自分に向き合う)って、けっこうしんどい構図です。途中で「もー、生まれてこなければよかったのに」みたいになります。それで「シラける」という状態に転じる。これは日常でもわりとあることではないかと思います。
わたしが教わったヨーガニドラーの練習の中で考えるとそれは暴挙に近いのだけど、ひとつ前の項目で書いたように、「自己to自己の構図」のトレーニングは「お国のために」「組織の発展のために」という目標を共有できる思考を育てる環境下ではむしろ邪魔になるもの。なので世代によってその負担の度合いも違うんじゃないか。さまざまな世代の人と接しながら、そんなふうに感じます。
わたしは自分自身にシラケの思考をする子どもっぽい面があって、それを意識しないまま年をとってしまいました。なので自分の中でシラけるこの種の非シャーンティが課題であると認識したときには、正直「だれかに教えて欲しかったよ」と思いました。でもそういう態度を子どもの頃から指摘されていました。自分の中でそれを受け容れる力を得るのが遅かった。

 

 

ぼんやりもシラけもしていない、シャーンティな状態

なんとなく目耳に刺激的なものを追いかけては意味のないことに時間とエネルギーを費やしてしまったとガックリくるのも、自分に向き合うのがしんどくてぷいっとシラけちゃうのも、実のところ疲れます。この種の疲れについて、神聖なものから離れたがゆえの疲れと解釈するかのような説明をインドで受けたとき、わたしがそれまで安心とかやすらぎと思っていたのは「lazy」に近いものであることに気がつきました。
日常的に「リラクゼーション・サロン」などの言葉で relaxation という語を使い慣れたあとでこの感覚を上書きするのはむずかしいのですが、身体以外のリラクゼーションもあるということを教わりました。



わたしは何年もヨガの練習をしていますが、リラクゼーションを感じられることもあれば、そこまでいけずにシャバーサナ中もしばらく穏やかでないこともあります。ぼんやりかシラけに引っ張られることもあります。それでもこういう概念があることを知って自分自身に向き合うことで、社会の中でネジが外れてしまうことへの恐怖にはかなり向き合いやすくなりました。

わたしは資本主義×おおむね法治国家という環境(日本)で生まれ育ってきて、いまもどっぷりそのなかにいます。なので自分なりにインドで教わったことをこんなふうにチューニングしています。それが絵文字かーいといわれたら

 


 (・・ゞ

 


としか答えようがありません。

みなさまのシャーンティを願って♡

 

 

たぶんこういうことでもある。モンキー・マインドが鎮まっている情景。

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