早いもので2月ですね。
久しぶりにヨガでお会いする人と話をすると、コロナに感染した経験をしたり、そうでなくても筋力が落ちるようなことがあったり(心も含めて)疲労していたりして、「潤沢な体力があるわけじゃないけれど、無きゃあ無いなりに」というスタンスでその日の感覚を味わっている、そういう状態の人を見かけます。
長く同じことを続けながら年月を重ねていると、今日のありもので料理して食事を楽しむみたいな時もあることがわかってきて、そのレパートリーも増えていきます。
これは「あの材料がないからできない」という状態で置いておくといつの間にかメインの材料まで腐らせてしまう状況と似ていて、まるで複数のエネルギーの使い方をヨガマットの上でシミュレーションしているみたい。
わたしはコロナで生活が変わるまで、自分で昼も夜も食事を作って材料を回していくような生活をしたことがありませんでした。
お弁当を毎日職場へ持っていくことはあったけれど、お弁当にはお弁当用のルーティーンや工夫があって、夕食や朝食まで含めた流れで材料の管理に意識を向けたことがありませんでした。
「無きゃあ無いなりに」というのは、あるべきと思ったものに囚われていないということ。
とても実用的な無執着の実行です。
もみの木はないがオーナメントをぶら下げる木のようなものはある。アロエがある。
タイで見たクリスマスの名残りはこんな感じでした。