うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

夢は乗り越えたい印象記憶を見せてくれるもの

物理的に日常を離れると、日々の思考からも距離を置くことができます。

いつもの寝床とは違う環境で見る夢で自分のなかでまだ生きていた感情を知った、そんな経験はありませんか?

わたしは何度かあります。

9年前にインドネシアで見た夢について書いたことがあります。

 

 

 

年始からしばらくの間に、タイで1回、帰国早々に1回、そういう夢を見ました。

日常に戻ると、こういう発見のある夢は減ってきます。

静かに自分を支配しているノイズを普段よりも客観的にみることができるのは、旅の大きな収穫です。

 

 

さて。

年始に見た二つの夢にタイトルをつけるならば、

 

 

   「存在しない妻から」「埼玉よりも長野のほうが近いのか」

 

 

どんな新春特別ロードショー(しかも二本立て)なの。わけがわからない。

そんな映画の配給会社のオーナーは、わたし。

なるほどこうきたかと、あとで思う内容でした。

 

 

 

「存在しない妻から」は、面識のない年長女性(声の出演)から、わたしの正しくないところをあげつらえた説教を受けている場面から始まりました。

若い女性たちがわたしを慰めようとしてくれていますが、親しみの感情がないので孤独を感じています。場所は日本の海辺。

わたしは電話で説教を聞きながら、同時に「ところでこの人は、何をしてる人なんだろう?」と思っています。すると、その質問をしていないのに、相手が突然「わたし***・******の妻なんだけど」と言います。

(その人物名はおもしろくてユルいのに文化的で狂気を漂わせる役も上手に演じる俳優・作家)

 

わたしはその「妻」の話す内容と陰気さとのギャップからがぜん顔が見てみたくなり、その人に会います。会ってみると声や話している通りの陰気さで、陰気な人が着るとより貧乏くさく見えるスポーティな服装をしています。

人名が出てきたところで「あ。わたし、この話をおもしろくしようとしてる」と、脳内の編集者の存在に気づいて目を覚ましました。

 

 

 

「埼玉よりも長野のほうが近いのか」は、東京の中心部から都内のどこかへ移動しようとしていると、突然、長野駅(架空の長野駅)で降りなければいけなくなります。

この長野駅にはJRと並行して私鉄が二本走っていて、わたしは私鉄の駅に着いています。ひとまずJRの駅へ移動して安心したいのだけど、なかなかたどり着けません。

やがてタクシーしか選択肢がないように感じられ、大きなビルの地下駐車場のようなところからタクシーに乗ります。そして乗ったら数秒で、初乗り運賃400円で目的地へ到着。「そんなことってある? どういう地域なの?」という感情を抱いています。

 

その駅に対して愛着も目的意識もそもそもなかった状態で、自分はいったい何をしているのかとイライラしながら行動しています。その空虚感のなかで「そもそもいきなり長野ってなに。埼玉で気づくはずじゃない?」と思考もしています。

 

映像を作っている元ネタは全部わかるので、場面はコラージュでした。私鉄の到着駅は東急線のホームで、目に入るプレートは営団地下鉄都営地下鉄のデザインで、タクシー乗り場は六本木ヒルズの地下です。

ストーリー展開は心の印象の記憶で作られています。

コラージュの強引さに気づいたあたりから(千代田線の濃い緑のデザイン×本八幡、の文字列の組み合わせの矛盾を見た)、脳内の編集者の存在に気づいて目を覚ましました。

 

 

 

夢はこのように、自分の中にわだかまりとしてくすぶっている思考や残っている印象を、強引にくっつけて物語にします。

心の深部でまだアウトラインを探している記憶の種が見えてくる。それを捕まえようとするかのように、記憶をくっつける作業を心が行なっています。わたしは嫌な・おかしな夢を見たときには、美学に昇華させたい過去の苦しみがそこに現われていると捉えます。

 

記憶を材料に料理をはじめることは、睡眠時の夢でなくても、日常の思考の中にもたくさんあります。

そこから抜け出すために日常のTODOをこなしたり、まるで有意義であるかのようなことや概念を利用して、意識をやりくりして過ごしています。

賢くなりたかったら賢くなるぞという意思、オシャレになりたかったらオシャレになるぞという意思がないと、意識はすぐさま白昼夢の世界へ飛んでいく。

 

 

眠りの夢は占いのように診断するよりも、教材として捉える。わたしは断然、こっち派です。

熟眠位・夢眠位・覚醒位・第四位に分類して意識を捉えたインドの賢者たちを心底尊敬しています。