気持ち悪いことを気持ち悪いと表明するのに、かなり技術が必要な世の中になりました。もともと失礼なことではあるのだけど。
気持ち悪いことを気持ち悪いと感じないようになるまでには時間がかかります。慣れと信頼がそれを乗り越えさせてくれます。
気持ち悪さのパワーは強烈なので、理性を失うとそのエネルギーに呑まれてしまいます。だからこそ、慣れと信頼には特別な価値がある。
わたしはこの映画を、チエちゃんに200%感情移入しながら観ました。
チエちゃんの気持ち悪さは、わたしの気持ち悪さ。
チエちゃんのしんどさは、わたしが逃げてきたしんどさ。
チエちゃんの鬱陶しさは、わたしも持っていたもの。
主人公の兄弟は盛大にやっておられ、評価も絶大です。わかる。わかるよ。
香川照之氏の怪演、オダギリジョー氏の色気、面会のシーンはどれもすごい緊張感だし、自虐を越えた被害者意識の蓋を開けちゃってからの兄弟のそれの凄まじさったら。
登場人物たちの感情も記憶も吊り橋もゆれた。ゆれたゆれた。わかったわかった。
それ以上に、大いにゆれてしまったわたしのこの感情をどうしてくれる。
どうしてくれるんだーーー!
名画!!!
チエちゃんが自力で逃げられなかったからといって、だからと言って
「殺されるような人間だったのかな」と問うチエちゃんのお母さんのセリフにわたしの気持ちが集約されていました。
わたしはこの映画をチエちゃんに200%感情移入しながら観たけれど、
チエちゃんがもし同級生だったら、友達にならなくて済むように避ける対象です。
というか、チエちゃんがわたしを避けると思う。うまくわたしを避けてほしい。
チエちゃんは覇気がないのに作為がありすぎるから。
よく内容が聴き取れなかったチエちゃんのセリフに、こりゃ殺されても無理はないと思うものがありました。
「お母さんやあなたみたいな生き方をしたくない」という趣旨のことを叫んでいました。チエちゃんは、ずっとそんなふうに身近な人の生き方をジャッジしていたのです。
そうやって消去法で考えてるから、 ”自然” に殺されてしまうのよチエちゃん。
この感想は最後になっても変わらなくて、映画の後に小説化された本を読んでも変わりませんでした。
映画のあとに本を読みました
先に映画を観て、監督自らがあとで文字にした小説を読む。
こんなにドキドキワクワクする答え合わせってあるだろうかと思う時間でした。
やはりチエちゃんの愚かさはわたしの愚かさでした。
チエちゃんよりほんの少しだけガッツを起動して生きてはきたものの・・・、いや、わたしだって、きっとああなっていた。素養はじゅうぶんに持ち合わせています。
あそこであの反応、あの発言を抑えることができていたかと言ったら自信がないし。あの頃はまだヨガをしようなんて思う年齢じゃなかったし。
あれは20代の後半で多くの女性に起こる試練。そういうことにしといてほしい。
稔さんは言いました。
「俺は、ああいう高いのや揺れるのが苦手でさ。小さい頃から、いつも置いてけぼりでさ」
ならば私は行こう、と思いました。
あの吊り橋ならば私も知っています。人が歩けばぎしぎしと揺れるその橋を、渡ってはだめと母に言われて、人が悲鳴をあげながらよろめきながら、楽しげに渡っていくのをいつも遠くから眺めていました。
私は今度こそ橋を渡る。
行ったことのない向こうの岸に、辿り着いてみせる。
(第二章 川端智恵子のかたり より)
この「今度こそ」という感情がクセモノでねぇ。。。
こういう感情を抱くことが自然な社会でがんばっている。がんばれチエちゃん。
だけどそのモチベーションは間違いかもしれなかったね。その間違いかたに、わたしも既視感があります。
チエちゃんのお母さんが「あの子は殺されるような人間だったのかな」と問うセリフの重みよ!
* * *
男性たちの心理描写は、わりと日常で見慣れたものばかりでした。
お金が介在する部分では、映画を観てから小説を読むことで、自分のカンの鈍さを思い知らされました。
チエちゃんのお母さんが渡してきたお金は「返却」で、父が渡したものが戻ってきたということを小説を読んで理解しました。
手っ取り早くお金の束を使って気持ちを鎮めたい、その鎮魂欲を抑えられない、父と次男の似た性質が「札束」を通じて表現されてました。ここは、映画を観ただけでは気がつきませんでした。
わたしの鈍いところって、こういうとこなんだよなー。
あーあ。なにかを言い当てられた気分。
それにしても。
この小説は田舎の描写が容赦なくて、嫌な形で引き込まれます。
“消極的な暴力” なんて、たった六文字よ。弟が兄に向ける “去勢された不能者を見るような悪趣味な愉悦感” なんて、いくら帳尻合わせのための思考だとしても、どうにも視点が悪すぎる。
こういう感情に向き合えるようになるのって、いつからだろう。
これはわたしにとって、まだまだ現在進行形の難題です。
* * *
話をチエちゃんに戻します。
この小説は芥川龍之介の『藪の中』の形式を取られていますが、わたしは読みながら何度も夏目漱石の『行人』の一郎と二郎と直(なお)の関係性を想起しました。
『行人』は都会の話で、明治45年・大正元年に発表された小説です。この時代の社会では、対人的に不器用でも長子から順番に配偶者となる女性を得ます。この兄弟の感じが、映画『ゆれる』と似ています。
長男の嫁の直は二郎といるほうが居心地よいという感覚を持っていて、それはとても自然な感情です。
あの直さんのああいう感じって
あれって、意思じゃないよね
夏目漱石は、女性がそういう意思(というか、それ以前の感情)を持つことを許されない時代に、そこに迫り続けています。『虞美人草』にはじまり、ほかにもいくつかの作品で書かれています。
『ゆれる』のチエちゃんは現代人です。彼女は「わたしにだって意思がある」と急に思いはじめます。
それがあまりに急なので、いやいやいやいや、なかったでしょうよ。それは意思じゃなくて、渡りに船とばかりのチャンスが来たら突っ込んでいく、ただの蓄積した怒りのエネルギーと行動の結果に理由を後付けしただけでしょうよと、そう言わずにいられない性急さがあります。
この性急さを「意思」に置き換えるズルさよ。
女性が社会の中で人権や権利を確立していく第一ステップにあるものが、このズルさを許容していく寛容さだとしたら、それに既得権益側が耐えられるだろうか。
この映画は評価が高く、あちこちで話題にされていたけれど、チエちゃんの心情を軸にした感想がネット上ではあまり見当たりません。
だけどわたしはチエちゃんスペシャルで、真木よう子さんのあのヌルくてズルい感じにスタンディング・オベーション。リアリティの追求っぷりがすごかった。
ほんとにいるよ。あんな子ばかりだよ。何歳になってもそうだよ。油断するとああなるんだよ。
わたしはそんな見かたをしました。