うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

信仰 村田沙耶香 著

ヨガの練習のあとの雑談中に教えてもらった本です。中編・短編とエッセイが8つ収められていました。「冒頭の『信仰』を読んでみて。すぐに読めるから」とおすすめされて読んだのですが、一冊丸々読むことで想像以上に感想が多く湧き出ました。

 

 

著者の代表作『コンビニ人間』は38の国と地域で翻訳・出版されているそうです。わたしも二度三度読みました。あの感じって、外国の人にどうやって伝えるのだろう。

わたしが思うに、村田沙耶香さんが掘り下げる所属意識へ向ける視点には、多くの人が捉えきれず扱いに困っている「土台がない感じ」をうまく再現するなにかがあって、それは ”長いものに巻かれちまって、ひとまずラクになりたい” と思うときの孤独感じゃないかと思います。

題材がコンビニでもスピリチュアルでもカルトでも、そこをしっかり書いてくる。

 

 

 

この本に収められている『信仰』も、『コンビニ人間』と同じように “こちら側からの視点” を説明しているのだけど、ところどころに入る “あちら側の世界のみなさま” への媚びが気になって、こういう引っかかりの入れかたひとつにも、平均から外れない範囲ってこのくらい? ぶっ飛んでいるという感想が生まれるのはこの辺からかな? と周囲の反応を探る感覚がしつこいくらい存在しています。うん、しつこい。

わたしはこの感じを「大人の中二病」だと思っています。このしつこさよ。

 

 

主人公があまり田舎で星を見たことがないために、夜空にぎっしりと星がつまっている状態を見て「夜空が蕁麻疹になったように見えて気持ち悪かった」と書くなんて、やけにしつこい。

主人公にとっては世界がこんなふうに見えたのです。どうですか? かわいそうでしょう? 自然のなかで豊かな人生を送っているみなみなさまーーー!!!  としつこくやらないと気が済まないこの感じこそが、平均を探り続けることがデフォルトになった生きかたの苦しみそのもの。

 

 

わたしは『信仰』の主人公のように世界を見ないし、見ないようにしています。信仰は自由なもののはずだから。── な〜んていう模範的な理由ではなくて、単純にそうなりたくないから。

ヨガを長く続けていると、途中からこの小説の『信仰』の主人公のようになってエビデンスで斬りつけるようなボディ・ワークを信仰するに至る、そういう人に出会う機会が一定の比率であります。「信仰」と「当てこすり」って、伝統宗教ではないものが跋扈する日本では見分けがつきにくいから。

わたしはこの感じを「大人の中二病」だと思っています。大事なことなので二度言いました(←このしつこさは別のものと思ってください。技法です)。

ちなみにこの小説の中では、わたしの気持ちは主人公の妹の口から語られていました。

 

 

 *  *  *

 

 

この本にはエッセイも収録されていて、わたしが著者の友人だったら触れないように気をつけるであろう部分を本人が自覚して書かれた文章がありました。『気持ちよさという罪』というタイトルのものです。作家ってすごいね。

 

この文章は、「変わった人」と認識されてきたことをキャラ化してメディアに出た自分の功罪を振り返って書かれています。朝日新聞に掲載されたそうです。

自分がとってきたスタンスの「罪」のほうに焦点を当て、まるでこの本(『信仰』)に収録されている別の短編『書かれなかった小説』に登場する夏子D(というキャラクター)が操作して書いているかのような独白です。

これがどうにも、夏子D的な読者の担ぐ神輿に乗せられた作家・村田沙耶香の存在そのものみたいな構図に見えて、複数のテーマの文章が一冊の本に掲載されていることで新たな不気味さが生まれています。

功罪の「巧」のほうを夏子Bが書いたバージョンの村田沙耶香さんの独白も読んでみたいけれど、こういうものこそ小説でないと書けないもの。しかもそれは、もうすでに『コンビニ人間』で見事に成し遂げられているともいえる。

わたしは巷でよく目耳にする「生きづらさ」という表現の使い方がよくわからないのだけど、住環境や法整備による「生活の組み立てにくさ」とは別の、村田沙耶香さんの書く小説のほうですと言われたら、ああそっちね、と分類できます。