もし可能なら先に原作を読んでから映画を観てほしいと友人に言われ、そのとおりにしました。
友人は映画を観て、いくつかなんとなく腑に落ちないところがあったみたい。
実際映画を観てみたら、その話を原作から削除して再構成するの?! という要素があって、だからといってそれを批判するにしても、この作品は小説が未完。朝日新聞連載中に著者が亡くなっています。
最後まで読みたかった。
わたしは映画のような結末ではないと思うんですよね。当時のファンはどんなふうに気持ちを処理したのかしら・・・と思ってWikipediaを見たら、こんなことが書かれていました。
映画独自の結末には林文学のファンなどからは批判を受けることもあり、「この夫婦は別れるべきだった」、「林自身はそのような想定をしていた」などの意見がある。なお林自身がどのような結末を想定していたかは不明である。
わたしは夫婦に子供ができる展開を想像したので映画版の結末に不満は起こらないものの、原節子&上原謙の組み合わせでは夫が視覚的に美しすぎると感じました。
俳優同士の年齢差は原作に近いのだけど、リアリティがないんですよね……。
もっとむさ苦しい俳優にすればいいのにと思ったのだけど、そうすると映画として絵が苦しい。これはなかなかむずかしいところ。
原作は28歳の女性が40歳くらいの夫と転勤先の大阪暮らしをしながら、夫が着々とつまらない中年になっていくのを日々感じています。
"わたしはまだ太ももがぴちっとして牛肉のあぶらみのように艶々している" てな調子で、いつものように食べ物に喩えたユーモアたっぷりの状況説明からはじまります。
しかも、驚くほど先進的なトークが展開されています。
アメリカで牛の体外受精が成功した情報を新聞で読んだ女性とその友人たちが、「独身のまま精子だけもらって子供を産み育てることができればいいのに」と話しています。昭和26年の時点で、こういう会話ってあったんだ・・・。まるで川上未映子さんの『夏物語』で読んだような会話です。
題名の『めし』は、舞台が大阪だから。この大阪の繁華街の描写もまた素晴らしいのですが、途中からダブルミーニングのようにこんなセリフが入ってきます。
会社なんて一週間くらい休んだらいいのにという姪に、こんなふうに叔父(主人公の夫)が答えます。
「そうもゆかないさ、案外、これで、せわしいンだぜ。休んでなンか、いられないね。女のように、安直には休めないンだ……。だてや酔狂で、勤めているンじゃないんだよ。めしの問題だからね……。」
本文では「だて」のところに強調点が打たれています。めし代を稼がなければいけない男はつらいよと。
男性も女性も若者も、生活のなかで口にする愚痴のナマナマしさが最高です。夫も実は子供を欲しがっていて、その思いの書かれかたも独特で。こういう緩急のつけかたが、林芙美子マジック。
原作では養子をもらう・もらわないの間で揺れる夫婦それぞれの気持ちが肝になっているのですが、それが映画では削除され、世代・地域ギャップや就職・転職にフォーカスをあてた内容になってます。
原作のほうが映画の10倍濃い問題に切り込んでいます。
映画版は夫の姪っ子のウザさの再現度がすごい!
ここからは映画の感想です。
映画版は原作小説にある重要な題材がカットされていながら、別の意味でインパクトがあります。
夫の姪っ子である里子ちゃんという若い女性がとにかくウザくて原作通り。こんな再現性ってある?! というレベルで、島崎雪子さんが演じています。これは名演技。
なるほどアイキャッチをこっちに寄せてきたか! 夫が若い女の子にデレデレする場面の、イケメン中年っぷりがたまりません。やっぱりかっこいい上原謙氏。(好きなんかーいw)
予想とは違うキャスティングもありました。
主人公の母親役が浦辺粂子さんで、近所の谷口さんを演じるのが杉村春子先生だと思っていたのに、逆でした。
映画版の谷口さんは養子の斡旋をしてこないので、ただのおもしろカワイイおばさんです。
わたしが原作で重要だと思っていたセリフもちゃんと入っていて、林芙美子原作小説の映画版を見るときはいつだって、「あのセリフをこの俳優さんが言ってる~」と思いながらニヤニヤできるのが楽しみ。
重要なセリフを終盤で小林桂樹さんが言うのですが、調子に乗ったフェミニズム的思考に釘を刺す文脈になっていて、最後まで観てなるほどねと思いました。