ひさしぶりに学生時代の友人と話をして、考えたことがありました。
いろんな話をするなかで、これはなんの情報交換だろうと思って振り返ってみると、それは「いま何に騙してもらってる?」みたいなこと。
プラセボ効果でもなんでもいいからちょいちょい自分を騙していこうと、日々を乗り切るための戦略を話しているのでした。
友人はエクオールのサプリの粒を見せてくれました。わたしはiHerbで買った大豆イソフラボンのカプセルを見せました。
ひみつの道具を見せ合いました。
自分を律すると思うと疲れてしまう
先日『星の子』という映画・小説について書きました。
9月に別のタイミングで同世代の友人ふたりから勧められて、偶然にしては濃いなと思って観てみました。ひとりは最初にヨガをはじめた道場の元スタッフ仲間で、もうひとりは旅先で知り合った友人。
彼女たちを見ていると、それぞれ自分の律しかたを持っていて、「律する」という気持ちが社会生活へ染み出したときに返ってくる精神のブーメランも、じゅうぶん経験済み。
そんな友人それぞれが話してくれた「星の子」の感想はとても興味深く、わたしも同じ思索をしたくなりました。時間をつくって映画と小説を行ったり来たりしました。
自分を律すると思うと疲れてしまう。だから、律することを絶対善として命令されたい気持ちが起こる。
それがわかるからこそ、わかってしまうからこそ、軽さと抜け感に救われる。ガス抜きのように会話を求めて連絡を取り合う関係性のなかで、ひとりのときに抱えている気持ち。そのなかでも言葉にしずらい、形にしにくいところが描かれている物語でした。
軽さと抜け感のメンテナンスとしての、騙し(だまし)
周りの友人の話を聞くと、それそれがあの手この手で自分を手なづけながら、ここまでなんとか乗り越えてきているのがわかります。
多少は、ああいうのって必要じゃない?
これは、『星の子』を勧めてくれた友人たちとわたしの気持ち。
むずかしいのは ”多少は” の塩梅。
”ああいうの” の対象自体は、宇宙の生命の水だろうが視点の歪みを直す眼鏡だろうが、インナーチャイルドを癒すセラピーだろうが身代わりになってくれる地蔵だろうが、そこは重要でない気がしています。
わたしを騙してくれるものは、視点を与えてくれるもの
ずっと正しく正気でいるのは疲れます。
正気だけれども正しくないかもしれない状態を話せると、わたしはうれしい。うれしいというか、助かる。
正しいことを正しいままプレゼンされるのも疲れます。
だからこれから書くことは、わたしとしてはちょっとむずかしいアジェンダです。それと出会えた生活を結果的にはとても気にいっているけれど、正しさについては棚上げしたい。
これから書くことは、そんな話です。
わたしを騙してくれる飲み物
今年の夏は暑くて大変でした。
わたしはこれを夜に飲んでいました。
サッポロのプレミアム。ノンアルコール。
わたしはこれで気分をスイッチオフできるようになっていて、いままで飲んでいたあの麦の液体は何だったのか。
2020年のステイホームを機に少しずつ乗り換えたのだけど、乗り換えが完了してしまうと外でアルコールを口にすることへの心理的ハードルが上がり、それを肯定するために「正しさ」が自分のなかに拡がってきます。
これは『星の子』で親族が見せた正しさ(お水入れ替え事件)に近い気持ち。
わたしはノンアルコール・ビールに “騙してもらっている” という視点を忘れずにいたいのです。
騙されるって、なぜかうれしいことでもあるから。
なんかうれしいのよね。どういうことなんでしょう。