うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯 田中嫺玉 著(前半)

(著者さんの名前の漢字は女偏に「間」です)

スワミ・ヴィヴェーカーナンダのお師匠さんの伝記。過去に何度か英文でその教えについて書いたことがありましたが、たまらん内容です。
インドでは国民的に有名な人です。ぜひどんどこ売れて欲しい本です。


こんなところがすばらしいです。

  • 冒頭に、インドという国の歴史についての記述がしっかりある。
  • ベンガル地方カルカッタ方面で特に濃い、特徴的なインド思想史・宗教史を学べる。
  • ラマクリ師匠の修行の歴史を追うことで、宗教について幅広く学べる。
  • 合間合間にあるインド思想の解説が、少ない文字数なのによくまとまっていて実にわかりやすい。


冒頭の説明の流れが抜群にわかりやすく、1800年代のインドの空気がビシバシ伝わってくるまとまりなのですが、特にベンガル地方の思想や信仰の歴史を学ぶのに、以下の記述がわかりやすくてよかったです。

  • チャイタニヤ派の影響が強い地域であること。
  • 同じくベンガル出身の詩聖タゴールの詩にもチャイタニヤ運動派が影響を及ぼしていること。
  • カーリー女神の説明。特にベンガル地方で盛んな密教派の神で、大実母(マー)と呼ばれる。

ところどころになにげに挟まる解説のなかに、わかりやすくていいなぁ、と思うものがたくさんあったので、いくつか紹介します。

<60ページより 神様の説明の「ブラマー」>
宇宙の創造者。これはウパニシャッド哲学による宇宙の大原理ブラフマン(梵)を神格化したもので、あまりに理念的すぎるせいか神話が発達せず、したがって前記の二神(ヴィシューヌ、シヴァ)のように信仰される神にならなかった。

遺跡だとトリオでいるんだけど、「はいはい、ヴィシュヌね、シヴァね、知ってます。で、、、この人は(人じゃないけど)・・・?」となりやすい感じがわかりやすい。

<99ページより インド六派哲学とその説明>
ミーマンサー派、ヴェーダンタ派、サーンクヤ派(数論派)、ヨーガ派、ヴァイシェーシカ派、ニヤーヤ派(正理派)の六つのうち、ヨーガ派は他の五派に較べて哲学的に独立した特徴がない。というのは、ヨーガとは修行法であってそれはウパニシャッド以降、インドの宗教すべてに共通したものだからである。

少ない文字数で、スパッとわかりやすい。


<101ページより ヴィシューヌ派の説明>
ヒンズー教のなかでもヴィシューヌ派というのは、徹底したバクティ、すなわち神に対する信仰、愛の宗教である。その愛は、召使の主人に対する関係、友人と友人との関係、子の親に対する関係、親の子に対する関係、妻の夫に対する関係の、五つの態度(パンチャバーヴァ)によってあらわされる。そしてその中でも、妻が夫を愛するように人の魂が神を愛することができるときに、愛の最高点に達するのである。

インド思想は「とにかくそういうことになっている」というのをひとまず呑みこんで先に進んでいくうちに、他のものとの関係性からじわーっと感覚的にわかってくるので(風土史といったほうがいいのかも)、こういうふうにサクサク説明が進む方がいい。



ヴェーダーンタと三昧周辺の説明もシンプルかつ鮮やか。

<104ページより 無分別三昧の説明>
「それ 即ち 我なり」というのが、ヴェーダーンタのきまり文句であって、それを悟るためにこの学派は「否定(ネーティ)の道」をとる。一名、知識の道(ジナーナ・ヨーガ)とも言う。
真実ならぬものを厳密に識別して、徹底的に捨ててゆく。相対世界の一切を否定し放棄したぎりぎりのところで、行者の意識は三昧の最高状態である無分別三昧(ニルヴィカルパ)に達し、永遠絶対の実在・智識・歓喜(サット・チット・アーナンダ)であるブラフマンに溶け入る。時間と空間は一つになって、誕生と死、原因と結果は夢と消え去る。知るもの、知られるものは円満な智慧の大海に流れ入って一味となる。愛するもの、愛されるものは等しく限りなき歓喜の体洋に溶け去る。
── この三昧に入っている間、その人の肉体と精神とは機能を止め、生命の試験には全く反応しない。傍の人から見ると、死体と同じである。無分別三昧を経験した人の意識は、現象の変化にも、苦楽にも、全く反応を示さなくなり、肉体は二十一日で枯葉のように朽ち果てると言われている。「個」であることを卒業してしまったからである。

伝記に添えられる解説って、いいですね。すっきりしてる。



こんなかんじで三昧に入ってしまうラマクリ師。彼の付き人のように支えた甥・フリダイ氏の大変さといったら!

<94ページより>
自分の体に全く無関心になった叔父ゴダドルを、献身的に世話をして命をとりとめておいたのは甥のフリダイである。苦心して食物を叔父の喉の中におしこみ、手を使って排泄させてやった。ゴダドルはただ宇宙の大実母に頼りきり、任せきっていた。

あの脱力っぷりの陰にフリダイ氏あり。これは、もっと知られなければならん。



ブラフマンと合一しちゃったときも、たーいへん。

<116ページより >
甥のフリダイが必死になって叔父の面倒をみた。無理やり、流動食を喉に流しこむのである。それでも栄養の不足から危うく死ぬところだったが、一番危険なときに一人の修行者が寺にやってきて手伝ってくれた。重い棍棒でなぐりつけて意識を立ち返らせ、その間にいそいで食物を口に押しこむ。この人が三日留まってくれたので助かった。

その辺の人にすごく頼みにくいことを……。まだ若いのに、叔父さんたら……。



今日は前半を紹介しましたが、後半は信者や弟子たちへの語りになります。はい、びべたん登場です。これがなんとも、おなかがよじれるくらいのすごい内容です。爆発的に笑えます。
この本は、そのステキ面白すぎる生涯に添えられた解説がすばらしい。本編の勢いを邪魔しないボリュームにおさえつつ、でも背景はしっかり添えておかないと「陽気な天才肌の聖者」がゲージツ家のような扱いで終わってしまう。
物語としては、タントラの伝授をした女行者ヨーゲスワリ、「ラーマクリシュナ」に改名する際に登場するヴェーダンタ苦行者トータプリ、23歳のときに婚約した5歳の妻で、のちにサーラダマニ・デヴィとなるラムチャンドラ・サーラダマニの3人が登場する場面が大きな山場になっています。


なんとなく伝記気分、というときにはげしくオススメの、かなりお得な一冊です。


★ラーマクリシュナの本への感想ログは「本棚」に置いてあります。