うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯 田中嫺玉 著(後半)


まえに前半への感想を書きましたが、今日は後半です。
周囲に集まる人が増えて、弟子も増えてきてからのエピソードです。グナを超越した領域のことまでなにげにサクッとおっしゃるので、リアル・バガヴァッド・ギーターのような味わいです。


<158ページ 第六章 神を求める人々との語らい より>
人は自分の想像しているような神を見る。タマス性の信者は、大実母(マー)が羊を食べるものだと思っているから、いけにえに羊を捧げる。ラジャス性の信者は、いろんなカレーをつくって、米を煮て、お供えする。サットワ性の信者は仰々しいやり方で礼拝しない。彼らの祈りは他人に気づかれないほどだ。油であげた米にさとうをまぶして二つまみくらいとか、砂糖菓子を二つくらい供えれば、それでいいんだよ。たまには神様のためにパエシェ(米、さとう、ミルクでつくるプディング)をこしらえることもあるけどね。
それから、この三つの性格(グナ)を超越した信仰者がいる。その人は子供みたいなものだ。神の名をとなえることが、その人の礼拝なんだよ。ただあの御方の名をとなえるだけだ。

ギーターの17章の言い換えなのだけど、なんというか……モーレツにカワユい。


<174ページ 第七章 『不滅の言葉』の輝き より>
信者「お経をよみましても、さっぱりわからないのですが、何故でございましょうか?」
ラーマクリシュナ「読んだだけじゃどうにもならんよ、修行しなけりゃ。あの御方を呼ばなけりゃ ── 。お神酒(みき)、お神酒、と口で言っただけじゃダメだろう、いくらか口に入れなけりゃ酔いやしない。」

ときどき、激しくロックな発言をなさいます。


<178ページ 第七章 『不滅の言葉』の輝き より>
青年「先生、智慧とはどういうものですか?」
ラーマクリシュナ「神だけが真実在で、ほかのものは全て虚仮。これを知るのが智慧だ。真実在 ── またの名をブラフマン。もう一つの名を " 時(カラ)" という。だからこう言われているよ。兄弟よ、ごらん。何と多くのものが " 時 " の中に生まれ、 " 時 " の中に消えさるか。
大実母カーリーは " 時 " と交接なさる。カーリーとは根元造化力(アデヤシャクティ)のことだ。カラとカーリー、ブラフマンシャクティ ── 不異(おなじ)ものだ。
" それ(タット)" ── ブラフマンは永遠だ。三世(過去・現在・未来)にわたって実在している。始めも終わりもない。それを言葉で表現することはできない。無理して言えば ── それは霊(精神)そのものであり、歓喜そのものだ。」

仏教(禅)もパタンジャリも「それは表現しようのない世界」といいつつけっこう細かく分類してるよねと思うところを、無理して言えば〜 と表現してくださる。つべこべ言わずにプラクティカル問答だ! という実践派。


<183ページ 第七章 『不滅の言葉』の輝き より>
(ここでのラーマクリシュナは「タクル」という呼び名)
タクル「ときに、ヴェーダーンタをどう思いますか?」
サドゥ「ヴェーダーンタの思想は、六派哲学の全部をふくんでおります」
タクル「しかし、ヴェーダーンタの核心はこうでしょう。ブラフマンのみ実在、世界は虚仮。" 私 " はそのブラフマン以外の何物でもない。そうでしょう?」
サドゥ「その通りです」
タクル「だがね、世間に住んでいる一般の人たちが、肉体意識(自分が体であるという意識)のある人たちが、『我はブラフマンなり』などと言うのは、よくないことだよ。世間なみに生活をしている人びとにとっては、ヴェーダーンタは ── よくないね。たいそう害になる。一般の人は、神に対して、主人に対する召使の気持をもっているべきです。神さま、あなたは御主人、私はあなたの召使、というふうに ──。肉体が自分だと思っている人たちが、『我はそれ(神・ブラフマン・真理)なり』という気持をもつのは、よくないことだ」

スワミ・ヴィヴェーカーナンダへと引き継がれるイズムここにあり、な箇所。


<191ページ 第七章 『不滅の言葉』の輝き より>
現代(いま)は、いろんな食物をとらなくては体を養っていけない時代だから、この肉体が自分だという意識がどうしてもなくならない。こういう有り様で、ヴェーダーンタ式に『我は " それ " なり』と言っちゃいけない。世間なみのことをあれもこれもやりながら、『私こそがブラフマンである』なんて言っては、正しくないんだよ。世間のことが捨てきれない人や、" このワタシが " という気持からどうしても脱けられない人は、こうしたらいい。つまり、私は神の召使、私は神の信者だと誇らしく思っているのがいい。信仰の道をすすんでも、ちゃんと神をさとることができるんだから。
智慧の道を修行する人は、これではない。これでもない(ネーティ、ネーティ)、と感覚を通してわかる智識を次から次へと捨てていって、最後にブラフマンを知ることができる。ちょうど階段を一段一段上がって屋根にのぼるようなものだ。ところが、真理を体得した人は、つまり屋根の上にあがってしまった人は ── その人はね、屋根と同じ材料で、その一つひとつの階段もつくってあるのだということがわかるんだ。ネーティ、ネーティと打ち消しつくして、最後にブラフマンとして感じとったもの、それ自身が、一つひとつの生物(たましい)と世界に成っているんだよ。真理(かみ)をつかんだ人というのは、無性無相の " それ(タット)" が、ありとあらゆる性質と色相(かたち)なんだということがわかっている。

禅のような出だしで最後が般若心経になってる! スーダラ節の転調を超える驚き。


<201ページ 第七章 『不滅の言葉』の輝き より>
見かけはまことに先生らしくない先生なのであるが、しかし彼は稀にみる指導者であった。相手の素質と能力を寸分の狂いなく的確に見抜き、各人に最も適した方法を教えて向上させた。最近みる夢のことを思い出させて詳しく聞き、指導の参考にするというようなこともしている。彼によると、火の燃えている夢、松明(たいまつ)の明り、火葬場の夢などは、「とてもいい」そうである。

先日紹介した「コタムリト」に体癖診断のエピソードがりましたが、夢を通じて潜在意識の状態を見ていたのでしょう。



上記の続き。

一番大事なのは、神への信仰を獲得することであって、ハタヨーガに類することは全く必要がないと言い切っている。食物についても、きびしいことは言わない。もともと、「肉体は枕カバーか鞘のようなもの。あってもよし、無くてもよし」なのであるから、今夜にも事故で灰になるかも知れぬ肉体のために、心をくだいたりするのは愚であるという考えである。

ここまでは、まだ前フリの面白さ。面白いのは、この先です! つづき。


「正しい智識を得た人は、肉体や金のことに心を使わない」
無明の闇に迷うのも、解脱して大自在になるのも、心次第。故に心を清め、心を強めて、最高の目標に集中せよ。それについては、
「生ぐさ物を食べたり、タバコを吸ったりしてもどうということはない。最も障害になるのは、" 女(カミニー)と金(カンチヨン)だ "」
彼は、この "女と金" に関しては一歩も妥協しない。"女と金" から遠ざかるほど神に近づく。"女と金" に近づくほど、人間の精神は低下し、汚れる。少年たちを可愛がるのも、「女と金に汚されていない清浄な容器(いれもの)だから、神さまの用が足せる」という理由なのである。

金と女はダメ! は何度も出てくる教えです。


<205ページ 第七章 『不滅の言葉』の輝き より>
──向上心を持っているかぎり、誰でも、必ず、目的地に到着できるのだ。誰でも、そうなることに決定(きま)っているのだ。
「ただ一つのものがあるだけで、ほかには何も無いんだよ。"私" がある間は、かの至高至聖のブラフマンが根元造化力という相で、創造したり維持したり破壊したりしているように見せかけて下さっているだけだ。一つが二つになっているのではない。不意(アベド)だ。不二(アドヴァイタ)だ」

出だしのバカボンのパパ風な翻訳によい味わいがあります。やわらかな言い切り。ベンガル語がわかる人はシビれたんだろうなぁ。



この本の紹介はもう1回続けます。最終章のみ特別扱いです。
なぜなら・・・
それはもう爆発的におもしろい章だからです。
これはもったいつけます。
つづく


★ラーマクリシュナの本への感想ログは「本棚」に置いてあります。