「第一講」に続いて、第二講の紹介です。第二講のポイントは「ヨーガと仏教を一緒に学ぶメリット」が明言されているところ。
前回「インドの哲学ってものは神学では決してない。人間学なんです」と語っていた佐保田先生の視点がさらに掘り下げられる部分も素敵です。インド哲学の勉強は、「マイトロジカルな視点」「フィロソフィカルな視点」「サイコロジカルな視点」という配分をドーシャの優劣のように感じられるようになると、ぐっと身近になってきます。
佐保田先生やJ・ゴンダ先生のような、インド人ではない人の考察から学ぶというのは意外と重要で、わたしはインド人の先生から哲学を習っているとき、「パタンジャリはBCの人かADの人か」と質問すると「説は分かれているけど、僕はBCだと思っているけどね〜」という感じで、それ以上細かい質問をすると「そこはそんなに重要か」みたいな雰囲気になったりしました。
佐保田先生のように、こんなふうにはなかなか話してもらえないものです。(そのまま引用紹介へ進みます)
<71ページ 冒頭より>
仏教やジャイナ教に対抗するような、一つの修行のシステムを作ろうと、言うて出来上がってくるのがヨーガだと、それがヨーガだと。ヨーガって名前が付いたのは、ですから仏教より以後なんですね、私のセオリーでは。だから仏教時代にはヨーガって名前は未だなかったんです。仏教やジャイナ教に対抗してバラモン達が作ったもんだと思うんです。そういうふうに私は考えますね。
ヨーギ、ヨーガって言葉はリグ・ヴェーダにもウパニシャッドにもあったけど、システムとしては仏教のほうが先だったと考えれば、「ヨーガ・スートラ」のサマーディの分解の執拗さもおもしろく見えてくる。
<73ページ ヨーガ・スートラの成り立ち より>
パタンジャリという人が書いたんだとすると、そのパタンジャリって人は紀元前三世紀におった人なんです。BC二百年代におった人なんです。ですから今の『ヨーガ・スートラ』の一番古い部分は、このパタンジャリが書いて、それで書いたから、それが『パータンジャラ』という一つの薄いパンフレットのようなものになって残ってきたんか、おそらく頭の中へ記憶として残ってきたんですね。記憶して残す、その部分が残ってきたと。それから後に、またいろいろヨーガの流派の中に論文が出来上がってくる。スートラが出来てくる。それは紀元前三世紀ですね。それから、AD四世紀から五世紀になって、これがまとめられるんですが、BC三世紀の時にパタンジャリという人が書いた、パータンジャラという人が書いた書物としておきましょうか、書物が出来上がっておる。それから後に、同じヨーガ系統の中に、たくさんいろんな書物が出来上がってきたわけです。それをAD四世紀つまり六百年ないし七百年の後に、それらの中の一番大事なものだけを幾つかまとめて一つの本にしたわけです。編集したわけです。その編集をしたときに、元のパタンジャラという書物があるから、それをとってパータンジャラというたんだと、それだからパタンジャリの作ということになっているんだと、こういう仮説が出来上がるわけです。
わたしは「コードネームのような感じ」というふうにとらえているのですが、たとえばアシュタンガ・ヨガのオープニング・マントラに出てくる雰囲気では完全に神様になっています。不動明王を描写する感じと似ています。空海さんはひとりしかいないのに、日本中のあちこちで弘法の湯が湧いちゃっているのとも似ているのだけど、なによりそれが書物で成り立っているのがすごい。
さまざまなスワミの言葉で展開するコメンタリーも含めて、この展開力・継続力はほんとうに脱帽もの。
<78ページ ヨーガとは より>
私はメタサイコロジィが本当の哲学なんであってメタフィジックは本当の哲学ではないと…。これは私の議論なんですね。だからヨーロッパの哲学は行き詰ると。大体哲学ってものは、人間の研究、アンソロポロジィってものが哲学の根本なんだから人間学が哲学なんで、フィジカルな世界の研究はこれはサイエンスで、どこまでもサイエンスであって哲学ではない。これは私の極論です。ドグマです。だから西洋には真の意味で哲学はないんだと、そこまで言いたいんですね。そりゃまぁ西洋哲学をやる人には反論があると思いますけれども…。しかしまぁ人間学が本当の哲学だって言う人には反論があると思いますけども…。しかしまぁ人間学が本当の哲学だって言うことには賛成する人は多いと思いますね。人間を離れてては哲学は成り立たないんです。
「metapsychology=心理学論」「metaphysic=医学論」「anthropology=人類学」
ここを読んで、ああこれは沖先生のいう「生きている宗教の発見」と同じことだろうか、とぼんやり思った。
<89ページ サーンキア哲学(2) より>
この真我と自性ってのは、じゃ直接関係があって人間みたいに結婚するかというと結婚はしないんです。ただ、真我と自性とがある機会に近づくんです。そうするとこっち(自性)の方が、婦人の方がどうも積極的で、近代の日本みたいなもんでね。積極的で、このAという意欲を起こしてくると言うんですね。ここんところがちょっとおかしいんですがね。そんなことをする必要がないやないかと思うんだけれども、そういう意欲をおこしてくる。(中略)
こっち(自性)のほうがいろいろと心配して、それで真我ってものに、いっぺんずーっと世界を見せてあげようと、世界をみせてあげて、一時は発展した世界というものにちょっとばかり気が引かれるようにしてやろうと、そうしたうえで今度はもういっぺん元に戻してしまって、全部なくしてしまって、そしてこれが本当に自分に還れるようにしてやろうと、つまり、真我ってものをいっぺんいろいろな経験をさせてやって、それから挙句に今度は真我はもうそれにうるそうてたまらんようになって、逃げ出させるようにして、これを本当の本来の姿に帰してやろう、と言うそういう親切心をこの自性が起こすっていうんですね。
佐保田先生も「図説ヨーガ大全」での伊藤武氏も、プルシャとプラクリティの説明をするとき、男女の恋愛や結婚を喩えに使っているのですが、女性のわたしからすると、これは喩えとしてフィットしない。「男性にとって女性はプラクリティのような存在だ」と男性が喩えるのはとても興味深いのですが、「なんだかこっちが悪いみてぇじゃんかよ」という気にならなくもない。
わたしは中身はおっさんですがいちおう女性の立場で喩えが浮かびますから、プルシャ=クララで、「こっちが楽しそうに感じたら立って歩くんじゃんかー!」と、そういう関係をイメージしていて、ハイジ=プラクリティという感覚です。
ハイジはアルムの山が泣いていると思ったら泣いているという。このハイジと自然の関係もまた置き換え可能なのですが、男女の雰囲気じゃないだろー、と思うわけです。
話があっちこっちへ行きましたが、要するに男性は女性に翻弄されたいみたいです(ざっくりまとめた!)。
<97ページ サーンキア哲学(2) より>
だから我々の真我ってものは、神の分身だってことは神全体というのと同じことやと、絶対の世界に入っちまったら。これは悟らないと分からんけれども、部分とか考えているのは我々は未だ現象の世界におるからそんなことを考えておる。こういうふうになってきて、それでジュニャーナ・ヨーガってものが出来てくる。この時になってきますと真我って言葉が二つありまして、サーンキアの時にはプルシャだとこう言うんです。プルシャという言葉を主に使うんですね。ところがジュニャーナ・ヨーガ、ヴェーダーンタのヨーガになるとアートマンという言葉を主に使うわけです。こっちも使いますけどね。どっちも使うんです。サーンキアでもアートマンと言いますし、プルシャのことをアートマンと言うし、それからヴェーダーンタでもアートマンのことをプルシャと言いますけれども、どっちかと言うとサーンキアの方ではプルシャという言葉をたくさん使うんです。それからヴェーダーンタの方ではアートマンと言う言葉をたくさん使う。言葉はちょっと違う、同じことなんです。要するに真我です。本当の自分ということですね。そんなふうに変わっていきます。
こういう哲学の上にヨーガのプラックティス、ヨーガの実践、修行ってものが成り立ってきているわけですね。
こういう用語解釈のニュアンスを説明してくれるのは本当にありがたい。
<115ページ ニローダとは より>
仏教の今日残っているテクニックで意味がはっきり分からなくなったやつが、『ヨーガ・スートラ』を見てはっきり分かる場合もあると思うんです。これを仏教哲学者は、僕の言うことを賛成するかどうか知りませんけれど。
つまり行(ぎょう)っていうのはそうですね。サンスカーラ(samskara)って意味。十二因縁の中に無明、行、識、名色行ってあるでしょう。あの行というのは今まで分からないんです、はっきり。あの解釈をいっぺん読んでごらんなさい、はっきりしないんです。あるいはクリヤーであるとかカルマであるとか、はっきりせんのですけれどね。(中略)
で、仏教を考えながら読まんと、『ヨーガ・スートラ』は分からないし、『ヨーガ・スートラ』で、仏教のこれまで分からなかったことが、はっきりしたという場合もあるんじゃないかと思うんですね。
ここはとても重要なところと思いました。わたしは『ヨーガ・スートラ』で、仏教のこれまで分からなかったことが、スッキリした感じがしました。1-17と連携する4-42以降にゾロゾロでてくるサマーディの分解です。仏教を少し学んで再読したときに「わ、仕様書になってる」と思ってびっくりした。
さて、ここからはQ&Aの文字起こしなのですが、「いいなぁこんな授業、受けてみたかった!」と思う内容です。
<119ページ 「真我というのは神なんですか」という質問への回答>
真我は神なんです。神っていうのは、絶対自由な存在と言う意味ならば、真我は神なんです。この上に神はないんです。
「前提&断言芸」と名づけていいですか。
<119ページ 「ヴェーダーンタで自性に当たるものはどういうものがあるんですか」という質問への回答>
自性に当たるものは、今度は梵から出てくるんですね。ブラフマン=アートマンですけど、ブラフマンから普通は出てると言われる。ブラフマンから世界は展開してくるんです。だから一つのブラフマンが。一方では個人個人のアートマンになると同時に、一方ではすべてのアートマンに共通した環境の世界を造っていくわけです。
「ヴェーダーンタで自性に当たるもの」は、サーンキャよりもさらにスケールがでかい話へ展開する。というのを語っている冗長さがいい。オレオレ詐欺みたいに、「オレオレ、ヴェーダーンタ」というような、ヴェーダーンタって結局そういう感じがするのよね……。好きなんだけど、たまに「フォーカスがほしい!」と思ったりする。
<120ページ 上記の続きで「そうしますとヴェーダーンタの哲学では真我と自性がひとつなんですね」という質問への回答>
結局、段階的になっているんです。自性は真我の下へ来るわけです。
この言い切り。かっこいいなぁ。
<121ページ 「ヴェーダーンタの方からいくと、仏教と近くなるわけですか」という質問への回答より>
ネガティブなヴェーダーンタとポジティブなヴェーダーンタとあるんです。で、ポジティブなヴェーダーンタと言うのは、これは実在論的なもの、リアリズム的なものなんですね。で、こっちの方はこれに対して言えば観念論的なんです。それでポジティブなものに近いのがサーンキアなんです。それからネガティブなものに近いのがブディズムなんです。もっともこれは原始仏教なんですよ。アーリヤ・ブディズムってやつですね。
ところが後のレーターブディズムですな、大乗仏教、レーターブディズムになると、今度はこっちの方、ポジティブに近い、いくらか。ポジティブな面ではこっちに近いんだけど、観念論的な面ではこっちに近いんですね。僕はそういうふうな感じがする。だからこっちの中間にあるんです、大乗仏教は。で、小乗仏教の、殊にお釈迦さんのアーリアブッディズムはこっちの方へ行っちゃうんです。これ修行の仕方が違うんです。実際の、ヴェーダーンタに以って、ヨーガやりますね。それを修行する時に、こっちの方の系統のやつは真我を求めるんですね。
真我はどれだ、真我はどれだって、始めから真我を求めて行くんです。それが近世の聖者ではラマナ・マハリシという人が、そういう方法で悟ってるんです。真我を求めるんです。
たぶんここはテキストか黒板を使っているだろう部分なので補足すると、ヴェーダーンタには「ポジティブ方面」「ネガティブ方面」に大きく分けることができて、ラマナの手法は大乗的な、ポジティブなほうだよ、と。
で、このあとの続きはラマクリ師匠のヴェーダーンタ師匠であるトータプリーはネガティブなほうからアプローチした悟り方だという説明が続きます。ネティ・ネティのアプローチです。
トータプリという人はヴェーダーンタの苦行者で、ラマクリ師匠の出家をナビゲートした人。この出家のときに法名で「ラーマクリシュナ」になった、などなどのエピソードを「インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯」という本で読むことができます。
この講では、ネティ・ネティからの流れで、最後にしびれるトークがありました。
<123ページ 講話の最後のほう>
お釈迦さんは五蘊無我とこう言うんですね。五蘊って別に五つでなくてもいいんです。なんぼでもかまへん。これでもない、これでもない、これでもないって、ないないずくしで、どんどん瞑想していくわけですよ。
「なんぼでもかまへん」(笑)。
もうこれ、インド哲学の分解職人芸でしょ。
いろいろずるいわー。
(この本は京都にある日本ヨーガ禅道院で購入できます)
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