以前読者さんからのコメントでおすすめいただいた本。1900年にアメリカで行なわれた数々の講演の内容を集めたものです。あとがきにほんの少しだけ、岡倉天心氏との交流について記述がありました。このブログではインドのスワミの本をたくさん紹介していますが、このヴィヴェーカーナンダ師はひときわ鋭い現代の言葉で語られます。訳も丁寧で、すばらしい一冊でした。
もしいま仕事のことで悩んでいることがある人がいたら、後半の102ページ以降が特に励みになる内容だと思います。
この本は定価よりも高値になってしまっているので、できるだけ多く紹介したいと思います。
■信愛の道、バクティ・ヨガ
<5ページ>
自分は肉体である、という人は生まれながらの偶像崇拝者である。われわれは霊である。形も大きさも持たない霊、無限なる霊である。物質ではないのである。
それ故、抽象を理解し得ない人、自分のあるがままの姿を思い浮かべられない人、つまり自分を物質を通じてしか、肉体としてしか考えることのできない人はことごとく偶像崇拝者である。それなのに人々は何と、相手を偶像崇拝者呼ばわりして互いに争うことであろう! 言いかえれば、各自が自分の偶像は正しく相手のは間違っている、と言うのである。
アメリカ人向けなのでこういう口調なのだと思いますが、大切なのは、最後の一行。責任の話をしている。
<6ページ>
この宇宙は名と形以外の何ものであろう。皆さんは言葉なしに考えることができるか。言葉と思想とは切り離すことのできないものである。皆さんの中で誰かこれを切り離すことのできる人があるか。やってみるがよい。何かを考えるときには必ず、皆さんは言葉という形を通じてそれを行なっているのである。一方が他方をもたらす。すなわち思考は言葉を伴い、言葉は思考を伴う。こうして、全宇宙は、いわば眼にみえる神の象徴である。
「ことばの存在を認識する」ということを、ヴィヴェーカーナンダ師はひときわ強く説く。マントラではなく、語られる言葉としての「言葉」。
<22ページ>
ある男がニューヨークの貧民のために千ドルの小切手を書き、同じ時に同じ部屋でもう一人の男が友人の名をかたったとせよ。両者がものを書くために頼った燈火はひとつであるがその使い方については両者の各々に責任がある。
賞められるのは、または非難されるのは、燈火ではない。執着なく、しかし一切物の中に、宇宙の動力すなわち愛は光り輝いている。
あなたしだい、ということ。「こんな環境を用意された」という考えは、もうその責任あるステージに立っていないということなんだ。
■霊性の教師
<32ぺージ>
教師はその書物が何時代のものであるかを発見することはできよう。しかし言葉はその中にものを容れるための外形にすぎない。あまりに言葉にとらわれて、その力に常に自分をおし流させる者は精神を失う。それゆえ、教師は聖典の心を知ることができる者でなければならない。
言葉は容器。言葉には力があるけど、そのなかの心は、読み手のほうにゆだねられている。読んでいるわけなので。
■世界の偉大な教師たち
<58ページ>
さて、近代的な進化の理論と並んで、もう一つのものがある。先祖がえりである。われわれの中には、宗教上の古い概念に戻ろうとする傾向があるのだ。かりにそれが間違っていてもよい。とにかくわれわれは新しいことを考えようではないか。そうする方がよいのだ。なぜ成功しようと努めて悪いのか。われわれは失敗を通してもっと賢くなるのである。時は無限だ。壁をみよ。壁がうそをついたことがあるか。かれは常にかべである。人はうそをつく。しかし神にもなる。何かをするのは良いことだ。たとえそれが誤りであることが判っても、決して気にかけるな。何もしないよりはましなのである。牝牛はうそをつかない。しかしそれは常に牝牛である。何事かをなせ! 何かを考えよ! それが正しいか正しくないかは問題ではない。とにかく何かを考えよ。私の先祖がこう考えなかったからという理由で静かに坐したまま次第に感受性を失い、思考能力を失って行ってもよいものであろうか。それよりは死んだほうがましだ!(中略)
もし人が私に生涯飯を食わせてくれたら私の手は働かなくなってしまうであろう。霊の死は、われわれが羊の群れのように他人の尻についてうろうろする結果としてやって来る。死は無活動の結果である。活動的であれ。そして、活動のあるところには必ず相違がある。相違は生命の源である。それは美である。それは一切物の芸術である。相違はこの世で美しいものすべてをつくる。生命の源であり生命のしるしであるものは多様性である。どうしてこれを恐れることがあろうか。
前半の絶対積極のまくし立ては、実際聞いたらどんな感じだったのだろうと思う。「私の先祖がこう考えなかったからという理由で静かに坐したまま次第に感受性を失い、思考能力を失って行ってもよいものであろうか」というのは、本当にそうだと思う。
「生命の源であり生命のしるしであるものは多様性である」というあまりにも自然なことが、この流れで語られるところが、この人の最大の魅力であると思う。
<61ページ>
うつり変るものにあなたのハートを与える、という誤りを犯してはならない。それは不幸である。ある男に与えよう、もしかれが死んだら、結果は不幸である。一人の友達に与えよう、しかしかれは明日あなたの敵になるかもしれない。それをあなたの夫に与えても、かれはいつかあなたと争うかもしれない。妻に与えても、彼女は明後日死ぬかもしれない。まあ、このように世の中は動きつつあるのである。
「囚われる」ではなく「ハートを与える」というところに「主体性」があるの。
<63ページ>
「俗世のまん中に住み、働き、そしておのれの働きの果実をことごとく主に捧げる者は、決してこの世の悪にそまらない。蓮は水中に生まれて高く生い育ち、水面をぬきんでて美しい花を開く。この世のわざにたずさわりつつ働きの果実をことごとく主に捧げる者もかくの如くである」
クリシュナは、強烈な活動を教える者としてもう一つの調子を奏でている。働け、働け、昼も夜も働けとギーターは言う。「それでは平和はどこにあるのか、もし一生涯馬車うまのように働きつづけて働きながら死ななければならないのなら、一体何のためにこの世に生まれてきたのか」とあなたは尋ねるかもしれない。クリシュナは言う、「いや、それであなた方は平和を得るのだ。仕事から逃げることは決して平和を見出す道ではない」と。できるものなら仕事を放棄して山のてっぺんにでも行ってみよ。そこですら、心はぐるぐるまわりつづけるであろう。
「一体何のために」って、人にたずねてわかることじゃないんだ。そもそもが。なのにインド人はしっかり受け止めて答えてくれる。「一体何のために」という気持ちを共有する相手がいるとしたら、それはよくない仲間かもしれない。「わたしはこのためだと思ってやっている」という話ができる仲間は、いい仲間だと思う。
<65ページ>
「強烈な活動のただ中にあって深い平和を見出し得る人、深い平和の中にあって強烈な活動をなし得る人、かかる人はヨギである。偉大な魂である。かれは完成に達したものである」
強烈と平和を自ら照観できること。
<68ページ>
「かれ(マホメット)の宗教に良いところなどあるはずがない」と皆さんは言うかも知れない。だが、もし全然よいところがなかったとしたら、どうしてそれが今日まで存続したであろうか。よいものだけが生きる。よいものだけが生き残るのだ。よいものだけが強い。それだから生きのこるのだ。この世の中においてさえも、不純な人間の寿命はどの位長いか。純粋な人間の寿命の方がずっと長くはないか。これはもう、疑いのないところである。なぜなら純粋性は力、善良性は力であるから。もし回教の教えの中に一つもよいものがなかったのであったらどうしてそれが今日まで生きのびよう。沢山よいところがある。マホメットは平等を、人類の兄弟愛を、回教徒の兄弟愛を説く使者であった。
(中略)
マホメットは、回教徒の間には完全な平等と兄弟愛がなければならぬということを自分の生活によって示した。
そこには人種、階級、信条、皮膚の色または性による区別はなかった。トルコのサルタンがアメリカの市場で一人の黒人を買い、くさりをつけてトルコにつれて帰るかもしれない。しかも、もしその奴れいが回教徒になって十分な徳と能力を持てば、かれはサルタンの息女を娶ることさえもできるのである。これを、ここアメリカで黒人やインディヤンが扱われている状況と比べてみよ。更に、インド人はどうであるか。もし皆さんの国からやって来る宣教師の一人が伝統を固守するインド人の食物に触れたとすれば、かれはその食物をすててしまうであろう。皆さんも御らんのように、その哲学の偉大さにもかかわらず、われわれ民族は実践の面に弱点を持っている。この点回教徒は、人種または皮膚の色をこえて完全な平等を実践するところ、多民族をはるかに超えて偉大である。
日本人の多くにイメージだけで語られがちなイスラム教の教えを、すごくよく解説してくれていると思う。平等を説きながら実践できなかったインドの聖者の言葉よりも、強い実践と事実がある。
■愛の極致、パラ・バクティ
<92ページ>
われわれがこの世にみるさまざまの異なった種類の愛は、大なり小なりわれわれはその愛で遊びをしているにすぎないのであって、それらの窮極の目的はひとしく神である。しかし不幸なことに、人はこの強力な愛の河がたえず流れこんでいる無限の大海を知らない。そこで愚かにも彼は屢々(しばしは)、その愛を人間という小さな人形に向けて注ぎ込もうとする。人間性の中にある子供に対する量り知れぬ愛情は、子供という小さな人形のためのものではない。
もしあなたが盲目的排他的にその子の上のみ愛を注ぐなら、あなたは遂には不幸におちいるであろう。しかし、このような不幸を通じてめざめがおとずれ、それによってあなたは必ず、自分の内にある愛は特定の人間のみに与えられるとおそかれはやかれその結果として苦痛と悲しみをもたらす、ということを見出す。それゆえわれわれの愛は、死ぬことも変ることもない最高者に与えられなければならない。愛はその正しい目的地に着かなければならない。ほんとうに無限の愛の大海であるところのかれの許に行かなければならない。すべての河川は大海に入る。山腹を流れ下る一個の水滴さえ、小川か大河に達した後、たとえどれ程その河が大きくてもそこで進行を止めることはできない。遂にはその一滴もやはり大海に入るのだ。神はわれわれの感情の唯一の到着点である。もし怒りたいならかれに向かって怒れ。あなたの愛しき者、あなたの友に向かって小言をいえ。あなたが安心して小言をいえる相手が他にどこにいるか。肉体を持つ人間は、忍耐づよくあなたの怒りを受け容れないであろう。逆襲するにちがいない。もしあなたが私に向かって怒れば、まちがいなく私は直ちに逆襲する。私は我まんができないから。
「神はわれわれの感情の唯一の到着点である。」「もしあなたが私に向かって怒れば、まちがいなく私は直ちに逆襲する。私は我まんができないから。」というこの人間味あふれる展開がたまりません。
■仕事の秘訣
<102ページ>
こんな事さえなかったら人生は太陽の輝きそのものであろうに。心配御無用! すべての失敗と成功、すべての喜びと悲しみをひつさげたまま人生は太陽の光のみの連続であることができるのだ、もしわれわれが捕えられさえしなければ。
これが不幸の原因である。執着する、つまり捕えられているのだ。それゆえギーターは言っている。常に働け、働け、しかし執着するな、捕えられるな。一切のものから自分を離す力をあなたの内部に蓄えよ。どれ程愛しくても、どれ程つよく魂がそれを慕い求めても、それと別れるとした場合にあなたがどれ程大きな悲痛を感じるようであっても、別れようと思ったときには別れられるだけの力を蓄えておけ。今生においても、また何れの他生においても弱者は居る場所を持たない。弱さは奴れい状態に通じる。弱さは肉体的精神的のあらゆる種類の不幸に通じる。弱さは死である。幾百幾千の細菌がわれわれを取りまいている。しかしわれわれが弱くならなければ、われわれが彼らを受けいれるような態勢をつくらなければ、彼らはわれわれを害することはできない。われわれの周囲には幾百万の不幸の細菌がうようよしているかもしれない。心配は御無用! 心が弱くなるまでは、彼らはわれわれに決して近づき得ない。彼らはわれわれを支配する力を持たない。これは偉大な事実である。
「別れようと思ったときには別れられるだけの力」というのは、別れようと思わないとその力の存在すら意識しないもの。自分が強い心で働くことができる場面について、出会い、継続、別れ、いずれにも執着せずに考えることができるかって、すごく重要なことだと思う。
<105ページ>
われわれは捕えられる。どのようにして? 自分が与えるものによってではなく、自分が期待するものによってである。われわれは自分の愛の報いとして不幸におちいるが、その不幸はわれわれが愛しているという事実から来るものではない。われわれがお返しとして愛を欲している、という事実から来るのだ。欲望のないところに不幸はない。欲望はすべての不幸の父である。欲望は成功失敗の法則に縛られている。欲望は必ず不幸をもたらす。
「欲望は成功失敗の法則に縛られている」。
<106ページ>
何ものをも求めるな。報いとして何ものをも欲するな。あなたが与えなければならぬものを与えよ。それはあなたのところへ戻って来るであろう。しかし今そのことについて考えるな。それは千倍にもなって戻って来よう。けれどもその事に注意を向けてはならない。ただ与える力を持て、与えよ、それだけでよい。人生は始終与えることである、自然が自分に与えることを強制するのである、ということを知れ。それゆえ、喜んで与えよ。おそかれ早かれ、あなたは与え切らなければならないのだ。あなたは蓄めるためにこの世にやって来る。
(つづき)
手をしっかりと握って、あなたは取ろうと欲する。けれども自然は、あなたののどに手を置いてあなたの手を開かせる。好むと好まざるとに拘わらずあなたは与えなければならないのである。あなたが「いやだ」と言った瞬間に打撃がやってきてあなたは傷つけられる。結局は一人の例外もなしに、一切のものを与えつくさざるを得ないであろう。そして人がこの法則に抵抗すればするほど、より大きな不幸をその人は感じるのだ。われわれが不幸なのはわれわれが思い切って与えないから、われわれがこの雄大な自然の要求に素直に従わないからである。森は失われる。しかしその代わりにわれわれは熱を得る。太陽は大海から水を取り上げているが夕立にしてそれを返すのである。あなたは、取り上げ、そして与えるための一個の機械である。与えるために取るのである。それゆえいかなる報いをも求めるな。しかし与えれば与える程、より多くあなたのところに戻って来るであろう。より速やかにこの部屋の中の空気を外に追い出すことができれば、より速やかにこの部屋は外気によってみたされるのである。もしすべての扉とあらゆるすき間を閉じてしまうなら、中のものは外に洩れないが外の空気は決して中に入らない。そして中の空気はよどんで変質腐敗するであろう。河は絶えず海に流れ込みながらひまなく充ちている。海への出口を塞いではならない。そんなことをすれば忽ちあなたは死んでしまう。
カルマ・ヨーガね。
<108ページ>
私はその困難を知っている。それはすさまじいものである。われわれの九十パーセントは落胆し、意気そそうし、しばしば悲観論者になって、誠や愛や、雄大で高尚なものすべてを信じることをやめてしまう。このようにしてわれわれは、人生の初期においては寛大で親切で単純で正直であった人々が晩年に人間の偽りのマスクと化するのを見るのである。彼らの心は複雑そのものである。そこには多分、外部へのおもんぱかりがあるのだろう。彼らは激しない、彼らは語らない。しかし激し、語った方が彼らのためによいのだ。彼らのハートは死んでいる、それゆえ彼らは語らないのだ。彼らは罵りもしなければ怒りもしない。しかし怒ることができる方が彼らのためによい。罵ることのできるほうが千倍もよい。彼らにはそれができないのだ。ハートが死んでいる。なぜなら冷たい手がそれを摑んでしまったから。それはもはやはたらかない。罵言ひとつ吐くことさえ、荒い言葉を使うことさえ、できないのである。
ハートが死ぬということについて、考えさせられた。
<111ページ>
われわれは自分に相応したものだけを得る。われわれが、世間は悪く自分は善良だ、と言うならそれは嘘だ。決してそんなことはあり得ない。それはわれわれが自分自身に言ってきかせる恐るべき嘘である。
「われわれが自分自身に言ってきかせる恐るべき嘘」が、自らハートを殺してしまうのだろう。
■心の力
<121ページ>
われわれの家庭には家長がいる。ある人々は万事に成功しているが他の人々はそう行かない。なぜか。われわれは失敗すると他人の不足を言う。不成功に終るや否や、これこれが失敗の原因であると言う。失敗のとき、人は自分の過失や弱点を告白することを好まない。各人が自分には過失がないことを主張し、責めを他の何びとか、或いは何ものかに帰し、或いは不運のせいにするのである。家長が失敗した場合には彼らは、ある人々は実にうまく家を治め他の人々はそう行かないのはなぜであるか、ということを自分たち自身に問うてみるべきである。するとそのちがいは人間、つまりかれの在り方、かれの人格から来ているのだという事が分るであろう。
万事に成功している人なんてのはいないのだけど、主体性をともなう人格をもてるかどうかというのは、すごく大きなことだと思う。
<156ページ>
仏陀は「人があなたを傷つけたとき、あなたがかれを傷つけ返しても、あなたの傷がなおるわけではない。それはただこの世界に、もう一つの悪を加えるだけのことだ」と言っています。
怒らないことってすごくむずかしいのだけど、せめてこれ(仕返し)だけは絶対にしまい、と思っている。まずはここから。これがないと、発信なんてものはできないから。
110年前に、30そこそこのインドのお兄ちゃんがアメリカでこんなことを説いていたわけです。どうにもすごい話なのですが、そのアメリカの今を見ていると、とても不思議な国に見えます。
この素晴らしい教えすらも「星条旗」の一部とされてしまったのかしら、と。
この本に紹介されているメッセージも、もし日本人向けであればもっと違った言葉で語られたのだと思います。聞いてみたかったなぁ。