まえに井筒俊彦氏の著作「イスラーム文化 その根底にあるもの」の感想を3回に分けて書きました。
この本は講義の構成、流れ自体にうなる一冊で、最後がスーフィズムで締めくくられます。包括的な感想を書くのがとても難しい本と思っていたのですが、信仰のアウトラインとディテールの捉え方のヒントをあらためて確認してみました。
この本の最後は、こう締めくくられています。
<224ページ、225ページ より>
イスラーム文化の歴史は、ある意味ではこれら三つの潮流の闘争の歴史なのであります。(三つは下に書きます)
しかし、外から客観的に事態を観察することのできる立場にいるわれわれとしては、それらのなかのどの一つがというのではなしに、要するにイスラームとはこういうものなのだ、つまりこのように相対立する三つのエネルギーのあいだに醸し出される内的緊張を含んだダイナミックで多層的な文化、それがイスラーム文化なのだ、というふうに考えていくべきではなかろうかと思います。
【イスラーム文化の三つの代表者】
スンニー派、シーア派の違いをむずかしく感じるかもしれませんが、インド六派の「ヴェーダーンタ」と「ミマンサ」の違いも、知らない人にはややこしい。わたしは「ヴェーダ=コーラン」なんだけれども大きく二つの派がある、というような捉え方をしています。
<32ページ「宗教」より>
イスラーム文化の現在を一瞥しただけでもアラブの代表するスンニー派(いわゆる正統派)的イスラームと、イラン人の代表するシーア派的イスラームとは、これが同じ一つのイスラームなのかと言いたくなるほど根本的に違っております。
<183ページ「内面への道」より>
シーア派的イスラームと神秘主義的イスラーム(スーフィズム)とは、ハキーカ中心主義である点において完全に一致いたしますし、大きな意味では、同じ一つの文化パターンを構成いたしますが、もともと歴史的起源も、思想傾向も、存在感覚も、著しく違ったものでありまして、これを混同することは許されません。
シーア派とスーフィズムの違いも、どちらもパタンジャリをベースにしているけど、ヨーガ学派のなかでもシヴァ派は神秘主義的よね、というような。そういう捉え方をすると、感覚的にイメージしやすい。
イスラームは宗教法と生活、儀式が太くが結びついている社会でありながら、スーフィズムのような密教的な側面があり、その中間になるようなスタイルもある。どこかの側面を切り取っても捉えることができない。
同じ「仏教」が「ブッダは欲を肯定したか」「否定したか」という捉え方の違いで別の毛色に見えるような、そういうことと似ています。
この本に出てくる用語を、順番を意図的に並び変えてリストしてみました。(ベースはこの本に出て来る説明です)
<体系に関するもの>
ヴェーダがウパニシャッドもあって、ヤマ・ニヤマがあって、修行があって、輪廻があって…… という前半はすごくインドと似ているのだけど、イスラームでは「砂漠」の「共同体」で「月>太陽」という価値観がベースにある。
インドへ広まったイスラームはスーフィズムからきていて、イスラームから砂漠っぽさを抜くとインドっぽくなるなぁ、確かに。と思うのです。そういうふうに宗教を学んでいくと、おもしろくなってきます。
<意識、状態、現象>
トゥウィーは「汝性」「汝を汝たらしめているもの」という表現になったりする。分解しそうで、しないんですよね。
<立場、役割>
アーリフは、「スワミ」「聖者」って感じなんですね。この本の第三章は、ウラファーたちによる内面的宗教について語られているので、「内面への道」という章になっています。
人が人を裁く社会では、「○○の専門家、どこどこ大学の教授」などの肩書きがつかないけど尊敬される人、意見を聞きたい人の存在を定義するムードがない。そうすると、人の間にこころの戦争ばかりが起こってしまう。
イスラームではそこに「アーリフ」の存在がある。今のインドのラムデブ師なんかはまさにこういう存在に近いと感じます。
イスラームは、創造主や宇宙 ⇔ 個人の間に「社会」がある。マトリョーシカでいうと、重層っぷりが細かいな! と感じるような。
ヨーガを学びながら社会のなかに生きる教えを探すと、そこには「カルマ・ヨーガ」という教えが浮き出てくる。これを社会的にまわしていく役割を宗教法が担っている。そういう点で、よくできた宗教だわなぁと唸ってしまう。
ベースが性弱説、かつ、都合のいいときだけ利用しようってわけにはいかない構造なのは仏教と似ているのだけど、上座部仏教よりやわらかい。
わたしは感覚的に、アッラーさんと親鸞さんはきっと気が合うだろう。と妄想しています。
こういう感じじゃないと人口も増えないってことなんだろう、とも思います。