振り上げたこぶしをおろせなくなって、クレーマーになってしまう人がいる。
それよりもさらに微細な単位で、他人の役に立とうと腕まくりしたのに来てみたら相手はちっとも感謝してくれそうではなくて、まくった袖を戻せなくなる人もいます。
わたしはこれらの根っこにあるのが同じものだと思っているのだけど、これはなかなか言葉にしにくいものです。後者のちょっと微細な単位のものは「いいにきまっているであろうこと」をする人に多く見られる行動で、わたしはそのことについて考えすぎてしまって腕まくりができない人間です。
遠く大きく感じる存在ほど敬称をつけるのがはばかられるという意味で敬称なしでいきますが、以前「志村けん」という偉大なコメディアンがテレビでこんなことを話していました。
こういう仕事をする人は、
ふだん何やってるかわからないくらいがいいんだよ
わたしはこの発言を聞いたときに、ああこの人は "まくった袖を戻せなくなるつらみ" をよく観察しているのだなと思いました。まくった袖を戻せなくなる瞬間にこそ有効なのが、くだらなさだから。そこを救えるのはユーモアしかないから。
その偉大なコメディアンがリアルでおじさんになってから「となりのシムラ」というコントをやっているのを観て、なるほどこういうふうになっていくのかと、とても感慨深く思ったのを覚えています。
それはまさに、他人の役に立とうと腕まくりして来たのに感謝されないことがわかったときの人間と、振り上げたこぶしをおろせなくなってクレーマーになってしまう人間の根が一緒であることを表現するコントばかりだったから。
さみしい
この感情は非常にやっかいで、やさしくすればつけあがる。そういう性質をよーくわかっている人が作るコメディはやっぱり格別に面白くて、わたしにとって志村けんと鳥山明が不動の地位にいるのだけど、子どもがハマるものって、そういうものです。子どもってさみしいから。役に立ちたいもんね。
腕まくりなんてしなくていいくらい、さみしいことがなければいいのに。
そうすれば、義憤なんていうこじれた感情で自分の毒が自分に回ってしまうこともないのに。
それにしても志村けんという人は不思議な存在で、昔からおじいさんであり、おばあさんであり、神様でもあった。
「あんた神様かい?」「あんだって?」「あ ん た は、 神 様 かい?」「とんでもねぇあたしゃ神様だよ」という展開が何度観てもたまらない、おじいさんの神様。
ちいさな神社へ行くと、いまでもこの祠の奥にあんな人がいるんじゃないかと思ったりするのだから、ものすごい刷り込みです。
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