うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

もどって来たアミ エンリケ・バリオス著 石原彰二(翻訳)

この本はシリーズもので、第一作目はヨガ仲間のすすめで知って読みました。

 

二作目「もどってきたアミ」は、ぐっと実生活での葛藤に迫ってくる展開。もう子ども向けじゃなくなってる気がするほどの内容でした。
第一作目の時点で、これは宇宙人と子どもの対話という体裁のバガヴァッド・ギーター? という印象を持ったのですが、二作目ではアルジュナが一人増えます。なるほど、そうきましたか!


今回はアミが「エゴ」について説明をしてくれるのですが、まさにわたしがここ数年葛藤してきたことでもあって、この物語の中でアミはエゴを泳ぐときの「救命具」や動物の「カメレオン」に喩えて話してくれます。これがまあどうにも、なんともうまいこと話すもんだねという構成で、グサグサ刺してきます。
読みながら、わたしはこんな方法で刺されたかった。いまはもうこのくらい刺されてもあまり感じないくらい、自分はすでに葛藤をすませていたよ! と思い始める頃には少し勇気も湧いている。そんな強烈な読書時間でした。
このアミの説法をノートに書き写しながら、いまの自分に「あなたはここが、この部分が大切だと思ったのだよ」と思い知らせるように赤線を引いて、そしてその行為をしている自分に酔ってはいけない、ここで自分をよしとしてはいけないのだと、また戒める。とても厳しい修行のような読書。


この本の第9章はまるで「あるヨギの自叙伝」にあるバラのなかの聖者の話のようだし、第11章の老人は老子のようで道教的。そしてとどめをさすように、第17章「アミの真実のすがた」の展開はそのまんまバガヴァッド・ギーター第11章。
この本にあった「クラトの羊皮紙」のテキストを読んだあとに、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「普遍宗教への階梯」を開いてみたら驚くほど読み進めることができました。かれこれ読むのに3年以上かかっていた本なのに! きっと「もどって来たアミ」の問い詰めかたが、いまのわたしにとって適切な問い詰めかただったのでしょう。

この本のなかでアミは、ある種の人について愛が不足していると言います。

ほんとうに単純なことだけど、彼らには愛が不足しているんだ。じっさいに彼らは、そのエゴイズムによってにげるという行為に走ってしまったんだよ。健康な生活とか、心身の浄化とか、精神の進歩とかいった名目にカモフラージュされたエゴイズムだ。
(第14章 羊皮紙とふたつの可能性 より)

こんなふうに辛辣な物言いをする瞬間のアミは、小学生向けの設定を大きく超えていきます。完全に社会に揉まれた大人向けの展開やないかーい! という内容。
この本の中でアミが正直に明かしたように、わたしも「健康な生活とか、心身の浄化とか、精神の進歩とかいった名目にカモフラージュされたエゴイズム」にまったく嫌悪感を抱かずにいられるレベルではない。自分がそれをした時に自分を嫌いになる理由を、まだしっかり捉えきれていない。

 

この本は、マンションの広告コピーのようなふわっとポジティブな文章をSNSにアップした後に「あのときの自分は、大丈夫だったのだろうか」と一瞬葛藤するような人向けの内容を含んでいます。言語化しずらい罪悪感について、わりとググッとえぐってきます。

 

もどってきたアミ―小さな宇宙人

もどってきたアミ―小さな宇宙人

 

▼続編も読みました