前に以下のことを書いたら、そのきっかけになったNさんが読んで連絡をくれて、「わたしは気おくれよりも、人見知りをする」と話してくれました。
Nさんと話しているうちに、わたしのなかでだいぶ前から「人見知り」という概念自体が薄くなっていることに気がつきました。いまはほとんどが「気おくれ」に吸収されています。
年齢を重ねたことによって、この人はどういう人なんだろうと想像してみても結局5年10年、20年…と時間をかけて知っていくしかないと思うようになって、人を知る=その人の判断の傾向や性質を知る、という理解に変わっていきました。
まだ会ったことがないのにわたしのことを好意的に見てヨガクラスに来てくれる人は、たぶんわたしの文章を読んで過去に同じことを考えた瞬間のご自身と再会しようとしているのではないか。これが、わたし側から類推すること。
初めてヨガクラスに参加する人には「なんか一方的に知っている感じがしてヘンな気分なんですよね。わかります。わかりますよー。今ここにいる人、わたし以外最初は全員そうです」と伝えています。そしてそう言いながら、わたしはその人の中に、わたしの一部がすでにあるのだろうとも感じている。
これを数百回繰り返しているうちに、だんだん人見知りの感覚がわからなくなってきました。
わたしが考えることは「ぱっと見こんなちゃんとしてそうな人が、ひとりの時間にわたしのギャグを受け入れてくれたんだ…。日本の未来は(わたし的には)明るいな」とか「ますます信念を持って細かくボケていこう。きっとどこかで誰かが拾ってくれている」ということで、それ以上のことはひとりで妄想しても答えが出ないこと。
いま必要のない問いを立てないって、だいじなことなんですよね。「人見知り」を成り立たせる構成要素のひとつとして、これは意外と大きいかもしれない。
以下の本で「まだありもしない問題を解決しようとしてはいけない」と語っている人がいてハッとして、人見知りもそうだなと。
そんな逡巡があって、わたしにとって克服すべきはやはり「気おくれ」であり、そして、場違いだぞ!とバチーンとやられてもふて腐れない「リカバリー能力」もあわせて必要。いつも適切な強度でアクセルを踏めるとは限らないから。
わたしは昼にヨガクラスをする日は緊張して朝から何も食べないのが習慣になっていて、それは10年以上ずっとそうなのだけど、この緊張は人見知りの緊張というよりも時間管理に対する緊張であることが最近わかってきました。
まだまだ自分について、知らないことばかりです。