うちこのヨガ日記

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近代インド思想の源流 ― ラムモホン・ライの宗教・社会改革 竹内啓二 著

今年の前半に読んだ「インドの顔」でラーム・モーハン・ローイの存在を知り、「ヒンドゥー教 ― インドの聖と俗」という本でその呼び名がベンガル語の発音でラムモホン・ライと綴られることがあると知り、この本にたどり着くことができました。

ラムモホン・ライはそれまでインドで行なわれていた未亡人の焼身自殺制度「サティー」(これにより夫婦は天界に生まれかわり、夫の祖先三代の罪が消滅すると信じられていた)を禁止にすることを実現した人です。
このようなびっくり習慣はインドの古い書物を読むとわりと見られるので、女性はそもそも奴隷で人権がなく男子を産むことで「母」として男性から価値をつけてもらえるような、そんな考えが根底にあるのだなと解釈していました。それが、インドの近代史から追っていくともっと複雑な事情が見えてくる。イスラームの盛隆時から脈々と連なるヒンドゥー思想先鋭化の火種とガンディーの行なったアプローチの根拠が見えてくる。これまでインドの歴史やガンディーについての本をいくつか読んできたけれど、いろいろなことがここで繋がりました。

この本を読むことで、ラムモホン・ライの起こした行動・考えかたの特に以下のことについて知ることができました。

  • ティー廃止までの流れ
  • ヒンドゥーの特殊な論理に対する冷静な指摘
  • ガンディーに繋がっていく歴史

 

ティー廃止までの流れ

ティーの廃止運動をはじめたのは、宣教師たちだったそうです。植民地化で弱体化したインドとそこからサティー廃止までの流れに関連する箇所を抜き出していくつか紹介します。

 学問、知識の衰退は社会の堕落とあいともなって、盲目的迷信や残酷な社会習慣のまん延を助長した。富裕な人々やバラモンの間には、一夫多妻制が広まり、幼児婚、寡婦殉死(ショティ・ダホ、sati daha)、女児殺し、第一子を聖なる河に投げ込むなどは、程度はさまざまであるが、インドの各地で行われた習慣であった。もちろん、このような社会的習慣はその頃始まったものではなかった。しかし、これからの習慣が広く行われるようになったのは十八世紀末葉からである。これらの社会的堕落の中でも、女性の受けた困難と社会的束縛は最悪であった。女性には全く自由がなく、いかなる権利もなかった。
(29ページ 十八世紀後半の社会的・文化的状態 より)

 宣教師たちは、英語教育と社会改革についても重要な役割を果たした、彼らは英語教育とともに土着語教育、女性の教育に力を入れた。また、社会改革運動として、寡婦殉死の廃止運動を最初に始めたのは、ラムモホン・ライではなく宣教師たちであった。それから、幼児殺しに対する反対運動も展開した。さらに、寡婦再婚運動も支持した。カースト制度に対してはつねに批判し続けた。
(34ページ 三つの重要な動き より)

 一八一八年、ラムモホンはベンガル語の著作、『未亡人を生きながら焼く習慣についての支配者と反対者の討論』を出版した。続いて、一八ニ○年に『第二の討論』を出した。
 これらの著作で、ラムモホンは、至福を求めずに未来の限られた期間の小さな喜びだけで満足する未亡人は、寡婦殉死を行なうことを許されるけれども、永遠の幸福を求めるのなら神への信仰をもたなければならない、ということをヒンドゥー教聖典に基づきながら論じた。
 ラムモホンのこのような主張は、寡婦殉死の習慣を支持し奨励してきたヒンドゥー教保守派の指導者たちとの論争を巻き起こした。論争が進むにつれて、ヒンドゥー教保守派は決定的な論点をうち出した。すなわち、真の信仰や永遠の徳をもつ力は女性にはない、と断固主張したのである。
 ここにいたってラムモホンは敢然と女性擁護の立場に立った。その主張をみると、ラムモホンがいかに深くインドの女性の苦しみを感じとっていたが、また、以下に熱心に彼女らをその悲惨な運命から解放したいと望んでいたかがよくわかる。
(54ページ 社会的習慣と宗教的儀礼の改革 より)

この本には、「インドの顔」に書かれていたエピソード(兄嫁がサティーという名目で親族に殺された)は載っていませんでした。

 

ヒンドゥーの特殊な論理に対する冷静な指摘

この本を読んでいちばん感動したのは「そ、そこ、やっぱりツッコんでた人いたんだ!」という発見です。
わたしはインドでヨーガを学んでいるときに「ん?」と思うことが何度かあって、先生に訊ねたら、インド人がインドの神話学を日常に落とし込んでいく感覚は外国人にとって一番理解がむずかところだろうなと僕も思ってる、というふうに、いまふうの言いかたで話してくれたことがありました。(授業中の質疑応答の内容は思い出してこちらに書いています)
わたし自身はかなり質問の要素をマイルドな範囲から選んで授業に参加していたのですが、以下のようなことをやっぱりツッコんでた人いたんだ!と、この本を読んで知りました。

 ラムモホンは、偶像崇拝のよりどころとなっているプラーナ聖典における神の諸属性の叙述について、次のように述べている。
 神の諸属性がプラーナ聖典で述べられているように官能的で不道徳であるはずがない。例えば、神の創造的属性としてのブラフマー神(Brahma)は、自分の娘を強姦しようとした。
あるいは、世界守護の属性としてのヴィシュヌ神は、ブリンダ(Brinda)という女性の純潔を犯した。その他の神々についても同様の不道徳行いをした。神の属性であるこれらの神々がこのように官能的で不道徳であることは認められない。
 ラムモホンによると、このように不道徳な性格をもった神の偶像によって礼拝するための儀式もまた、道徳を破壊する傾向をもっている。例えば、クリシュナ神(Krsna)の礼拝においては、女性に取り巻かれたクリシュナ神の姿を絵にして、彼にまつわる物語りを説く。その物語りは、プータナー(Putana)という女性を殺したり、多くの女性を裸にしたり、彼女らを堕落させ、夫たちや親戚の者たちを苦しめるというものである。
 また、クリシュナ神への礼拝は、信者がクリシュナ神や取り巻きの女性に扮して、みだらな動作をしたり、クリシュナ神の恋遊び乱痴気騒ぎについての歌を歌うというものである。
 シヴァ神(Siva)の妃であるカーリー(Kali)の礼拝には、人間をいけにえにすること、飲酒、性交、放縦な歌を歌うことが含まれている。
 ラムモホンは、『ヴェーダ一神教的体系についての第二の弁明』を次のように結んでいる。
   同国人の心をそのような【神々の悪行に満ちた】物語りが生み出しがちである堕落から救い、神の真の礼拝と結びついている純粋な道徳に、神よ導きたまえ。
(104ページ 保守的ヒンドゥー教批判 より)

ほかにも、神々の存在様式や住んでいる所に関する見方も批判していたとあります。
ハタ・ヨーガの、とくにシヴァ派の教典を読んでいると神の住処と身体が対比でマッピングされています。それは地域性を類推できる要素になるものと思っていたのですが、たしかに地域が偏っていて、そこに権威を持たせたらまたいろいろ面倒なことが起こりそうではあります。
ラムモホン・ライは権力が悪用できる要素に敏感で、すごく現代的な考えをする人だったのだなということが伺えます。


こんな考えかたをする人だったそうです。

(ラムモホン・ライは)人間は四つの種類に分けられると述べている。
第一に、人々を自分たちに引き付けるために、宗教的信仰の教理をでっちあげ、人々に不和と混乱をもたらす人、
第二に、事実を調べずに他の人に従ってだまされる人、
第三に、他の人の言った言葉を信じ、同時に別の人に自分の教義に従うように勧める人、
第四に、全能の神の助けによってだましもだまされもしない人
(90ページ 各宗教の独善主義 より)

第四の論理は表面上、日本にはないもの。表面上それがあるほうがよいのか否か。これはわたしは一生観察し続けるアジ
ェンダと思っているので、その面でもこの一冊は逡巡のきっかけになりました。

 

 

ガンディーに繋がっていく歴史

日本の教科書にも登場するガンジーはインド独立おじさんになる前は、弁護士でした。ラムモホン・ライとガーンディー、それぞれの生きた年代は以下の通りです。同時代に生きてい
た運動家やスワミも添えて記載します。

  • 1772年~1833年:ラムモホン・ライ
  • 1817年~1905年:デヴェンドラナート・タゴール(父)
  • 1836年~1886年:ラーマクリシュナ
  • 1856年~1920年:バール・ガンガーダル・ティラク
  • 1861年~1941年:ラビンドラナート・タゴール(息子・詩人)
  • 1863年~1902年:スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
  • 1869年~1948年:ガンディー
  • 1872年~1950年:オーロビンド・ゴーシュ

日本の教科書では「東インド会社」という名称だけが妙に印象に残った植民地時代の様子、とくにイギリスがインドを関税で締め上げていく様子をこの本は税率を追いながら説明してくれます。こういう時代に、ガンディーは弁護士としてイギリスとアフリカへ行ったのでした。

 イギリス勢力のインド支配は、その統治の上層部にはイギリス人をおいたが、中、下級の職にはインド人を用いた。インド人に対する英語教育の欲求も、こうしたインド人の採用という現実の要請が、その大きな理由の一つであった。
 また、イギリスの影響によって法律制度が変化し、裁判所が各地に設けられると、弁護士が必要となった。また英語教育および高等、普通教育の振興は、教師の職業を求めた。社会との商業関係の進展は、インド人の商人、企業家に、英語教育への必要と熱意を生じさせた。こうして、官吏、教師、弁護士、商企業家はインド人社会の上、中層や、あるいは知識人の優秀な子弟を吸収する職業となった。
 これらの教育を受けた中間階層の人々こそ十九世紀の宗教、社会改革運動を担っていたのである。
(32ページ イギリス支配のインド社会への影響 より)

一八一三年の特許状法によって、東インド会社が、自由商人のために東洋貿易独占権の大半を放棄したことと、一八一四年~一五年のナポレオン戦争終結は、インドへの機械生産のイギリス製品の輸入を促進させた。
 さらに、一八一三年の特許状法によって、イギリスからの輸入製品は、内国税として、ニ・五パーセントを払うだけだったが、ベンガル管区の綿布は一七・五パーセントを払わなければならなかった。これは、事実上、インド製品を犠牲にして、イギリス製品を奨励するものであった。
(中略)
綿布は、長年、インドの主要製品であったが、こうして一八三ニ年ごろには、インドの綿布生産は破壊的打撃を受けたのである。
 他の産業の運命も綿布産業とそれほど変わらなかった。綿産業は、短い期間、成長したが、結局、イギリスとの競争とイギリス製品優遇の関税政策によって衰退していった。インドの塩生産は、東インド会社の独占と、生産方法の改善の妨げとなった課税によってだめにされた。
(206ページ イギリスの産業革命ベンガルの産業の衰退 より)

ガンディーがオーガニック糸巻きおじさんになる背景、手織布地の生産や塩の行進につながる経緯を、関税政策のプロセスを追う形で読むことができました。

 

 ヒンドゥー社会において、個人的礼拝がカーストのわく組の中で行なわれている。そのため、カースト間の差別、敵対関係が生じ、社会は弱体化した。一方、イスラム教とキリスト教においては、集団的礼拝が社会の結束力を高めている。ラムモホンはイスラム教とキリスト教に接して、その集団的礼拝に強く関心をもった。そして、集団的礼拝をヒンドゥー社会に導入しようとしたのであった。
 他の人への奉仕と社会の福祉を宗教的実践の主要な目標とみなすことについては、キリスト教の人類愛の思想と西洋の自由思想から大きな影響を受けている。
(175ページ ラムモホンの礼拝の理論 より)

キリスト教を経由して女性の人権に目が向けられた背景も含め、カースト内で弱いものいじめが固定化するループを断ち切ったラムモホン・ライ、すごいわ…。

 

 ラムモホンにつながる社会改革者たちの運動はエリート中心であっただけに、大衆から遊離する傾向があった。その背景には教育を受けたエリートと教育のない大衆の間に横たわる大きな社会的ギャップがあった。イギリス支配に対抗する十分な力を結集しようと民族主義者たちは、民衆の認める宗教思想やシンボルを支持し、用いることによって、このギャップを埋めようとした。
 例えば、ティラクは一八九四年にヒンドゥー教の神様ガナパティ(ガネーシャ)の祭りを、集団的、大衆的な祭りに変えて組織し、ヒンドゥーの大衆を民族主義運動へと結集しようとした。民衆的ヒンドゥー教の復活を提唱し、民族としての自覚を民衆にもたせて、植民地政府と対決していこうとしたのである。彼はラムモホンやブランモたちの用いた「理性」に訴える方法ではなく、「民族性」に訴える方法をとったのである。
 しかし、ティラクなどの過激派の人々のヒンドゥー復古的な方向は、ヒンドゥームスリムとの間のコミュナルな対立・抗争を引き起こす一つの大きな原因となった。このコミュナルな対立が、結局、インドとパキスタンとの分離独立という結果をもたらしたのである。
(194ページ エピローグ より)

ガンディーを暗殺するほどの「民族性」の呪いのコントロールを、いまのモディ首相は対外的に、ヨガの平和なイメージもうまく用いながらうまくやっているように見えます。どうなんだろ。内部からどう見えているかはわからない。

自分を取り巻く環境にいる人々の特殊な論理に冷静でいられるって、大切なことだなとつくづく思いました。西洋の考えを取り入れながら自分でも考え続けたラムモホン・ライの思想が行ったりきたりするのも、とても興味深かったです。

デヴェンドラナート・タゴール(詩人タゴールの父)についても一章まるまる割いてあり、しっかり解説されていました。

 

近代インド思想の源流―ラムモホン・ライの宗教・社会改革

近代インド思想の源流―ラムモホン・ライの宗教・社会改革