うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

愛と復讐の大地 青山圭秀 著

あまりに壮絶な話で、読んで驚きました。よく生きて帰ってこれたな…と思うほどのインド旅行記で、しかも新婚3ケ月の夫婦の旅行。
末尾にこのあとインドへの入国ビザが降りなくなったとあり、わたしの知っているさまざまな「インドでのひどい経験談」の最上級を行く内容でした。


それにしても、旅行中の心理描写があいかわらずおもしろい。「理性のゆらぎ」も「アガスティアの葉」もおもしろかったけれど、今回は状況が格別に危険です。えええ、これがあの本と同じ著者? と思うような内面吐露に驚きます。

仮にいま自分に全能の "力" が与えられたならば、いったい何をしたいか……。長く、冷たい房の夜を、私はそのような夢想をして過ごした。
 それは、いつか私が平常時に夢みたような、地球環境を清浄にするような科学技術の推進や、東西医学の融合による全人的医療の充実、あるいは、自由の奪われた教育制度の解放などといった、きれいごとではなかった。
 もちろん、それらはいずれも、心楽しい夢ではある。だが、このときの私が何をおいてもやりたいと思ったこと、それは他ならぬ "復讐" だった。
(第四章 シヴァ神の予言 より)

「理性のゆらぎ」も「アガスティアの葉」も、「エリート教授のアーユルヴェーダとスピリチュアル探訪記 ~晴れときどきサイババ~」みたいな雰囲気だったのに、あんなに愛を語っていたのに、どどどどどどどどどうしたのーーーー?! 

 

 思えば、インドと関わるようになって五年、その半分がヴェーダの英知を学び、聖者と出会ってきた歴史なら、残りの半分はインド人に騙されてきた歴史と言える。それは、タクシーで倍の料金を吹っ掛けられるとか、ホテルで与り知らぬ料金が請求されるという日常的なものから、手の込んだウソや欺瞞の類にいたるまで、さまざまである。
(第五章 神の沈黙 より)

それまでにも、嫌な目には遭われていたようです。でもそこを織り交ぜて書くと、本としてはまとまりがなくなっちゃうもんね…。こういう細かいことってきりがないし。でも毎回ちゃんと嫌な思いを噛み締めるのって必要なことかも…、とこの本を読んで思いました。
旅の道中で、著者本人(青山さん)がインド人から「ここにアヨーマが来たぞ」と営業される場面などはおもしろく読みました。

 

 

それにしても、最後のほうにあったこれはまさに、本当にそう。これよー!バガヴァッド・ギーターが手放せなくなる原理はこれよー!となりました。

 この世がこの世である以上、善も悪も、共になくなることはないだろう。仮にどのような高潔な政治が行なわれ、経済が発展し、科学・技術が進歩したとしても、世の中から悪が一掃され、善だけが残るということは起こらない。善と悪という絶対的な実体が存在するのではなく、相対的な善悪が存在する。それが現象界の宿命であり、本質なのである。
 その中で生きるわれわれは、ときに両立し得ない二つの善の一方を捨てねばならないことがある。そして場合によっては、二つの相対的な悪のうち、どちらか一方を行なうしかない立場に立たされることもある。人生はまさに、そのような選択の連続といえる。
(第十三章 愛と復讐の大地 より)

善いことをしたくて目を細めながら陰謀論を語る人にわたしは笑顔を向けてよいものか…、というレベルの些細なものにはじまり、二つの相対的な悪に挟まれる瞬間こそが日常。それにしても、この著者の経験は壮絶すぎる。わたしだったら確実にメンタル崩壊してるんじゃないかな。生きようとしなかったと思う。

 


少し前に以下のことを書いたら、数名のかたから「わたしはインドは無理だと思いました…」と言われたのだけど

この本にあることは上記の「おれんち来ないか詐欺」よりも何倍もすごい話。わたしは女性なので麻薬漬けのターゲットにされることがないけれど、男性の事例を掘ったらものすごいものがたくさん出てきそう…。
それにしても「精神が平常時でなくなるとはどういうことか」をここまで言語化するって、すごいなと思いました。究極の人間不信に至るプロセスは読みながらどきどきするけれど、小さな人間不信は日常にあることだし、立ち上がりの足腰が弱まる前に予防接種のように読んでおきたいものでもある。
今年はわたしも詐欺に遭ってきたつもりでいたけれど、あんなのこの話に比べたら佐賀の呼子イカよっちゃんイカくらい違う。そのくらい壮絶な話でした。

 

愛と復讐の大地

愛と復讐の大地