うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インドの顔(生活の世界歴史)  辛島昇・奈良康明 著

この本は1975年に出版されて1991年に文庫化されたので、文中の「現在は」は70年代前半のインドです。
インド文化は国際化のためには隠しておきたいことばかり。実情は現代に近づくほどオブラートに包まれていく。昔のインド紀行っておもしろいんですよね…。この本はふたりの学者さんによってまとめられたインドの生活観察史のような本です。
半年以上かけて読み進め、インド旅行中も読んでいました。この本は他の本ではあまり掘り下げられないカーストやジャーティ、結婚、女性の扱いについてかなりのボリュームが割かれています。この本を読んでいる時期に映画「パッドマン」を観たり、国際ロマンス詐欺師Rさんからお話をうかがったりしたので、リアルと連動して何度も読み返したり考えることの多い読書時間でした。
以下の要素に分けて、考えたことや感想を書きます。

 

カースト、ジャーティ、サブセクト

結婚相手を募集する新聞広告の文面を解説する箇所は、具体的でとても実状のわかりやすいものでした。

 二番目の例は自分をブラハチャラナムと記しているが、これは南インドバラモンの中の一つのサブ=セクト(ジャーティ)である。南インドバラモンは、まず、ヒンドゥー教の主神として、シヴァ神を崇拝するかヴィシュヌ神を崇拝するかによって、シヴァ派(スマールタと呼ばれる)とヴィシュヌ派に分かれ、ヴィシュヌ派の方は、さらにシュリーヴァイシュナヴァと呼ばれる派とマドヴァと呼ばれる派に大きく二分されるが、ブラハチャラナムは、シヴァ派(スマールタ)の中の一つの分派集団なのである。スマールタの中には、ブラハチャラナムの他に沢山の分派集団が存在している。
(92ページ カーストに生まれ、カーストに死ぬ/「花嫁を求む、セクト、サブ=セクトに拘泥せず」より)

ガンジーなど、インドの偉人の伝記を読んでいるとこういう話が出てきます。

 

 ヒンドゥー教のオーソドックスな観念によれば、異ヴァルナ間の結婚であっても、男性のヴァルナの方が高ければ、アヌローマ(順毛 ── 毛の流れにそっているの意)と称してまだ許容されるのであるが、女性が高ヴァルナで男性が低ヴァルナの場合は、プラティローマ(逆毛 ── 毛の流れに逆うの意)と言ってたいへんな罪となる。バラモンの娘とシュードラの男性の間に生まれた子は、チャンダーラという最下等の賤民(アウト=カースト)に落されることになる。
(100ページ カーストに生まれ、カーストに死ぬ/順毛と逆毛 より)

いまは日本でも、インドで身分差のある結婚をした女性がそれに反対する村人から殺されたというニュースが報じられる時代になりましたが、事情を知らないとその理由は「なんで?」ということになります。

 

菜食というのはバラモンのもつ習慣のうちの重要なものの一つで、この習慣をもつカーストは肉食するカーストより上位であるというように解釈されるのであるが、それ故、あるカーストがそれまで肉食をしていた習慣をやめて菜食するようになり、その結果、従来より上位のランクを主張するようになるといったことで、これは実は史上しばしば見られる現象である。
これを社会学者たちは通常サンスクリタイゼイション(サンスクリット化)と呼んでいる。そなわちそれは社会の種々のグループがバラモンサンスクリット文化をとり入れることによってヒンドゥー教カースト社会の中でその地位を上昇させていこうとする現象であると解釈するのである。
(113ページ カーストに生まれ、カーストに死ぬ/日常生活の中の浄・不浄 より)

「サンスクリタイゼイション」というのはこの本を読んではじめて知りました。

 

 

女性の生理のこと

映画「パッドマン」の背景が、以下を読むとよくわかります。

何が穢れていて、何が穢れていないかということになると、問題は古代社会における禁忌概念(タブー)や風習の問題全般にまで広がってしまうが、ともかくインドの社会で明白に穢れと結びつけられているものの例としては、「血」と「死」が挙げられる。たとえば血は女性の生理やお産のときにも見られるわけで、生理期間中の女性はたいへんに穢れており、普通は家族の食事を作ることもできないし、寝る時に部屋まで別にしなければならない。これはオーソドックスのバラモンの家などでは極めて厳密に守られており、マイソールの我が家の隣りの奥さんなどは、生理期間中、玄関のポーチのところで茣蓙(ござ)を敷いて寝起きしていて、中の部屋へは入れないようであった。若い女性など、その期間には家事から解放(?)されてかえって時間をもて余し、映画を見に行くことが多いという。
(112ページ カーストに生まれ、カーストに死ぬ/日常生活の中の浄・不浄 より)

パッドマンの実話の時期とそんなに時代が違わないと思うのですが、映画の中で奥さんは昼間は玄関横の女性だけのいるスペースにずっと居ました。

 

 

ダルマとは

この本にある「ダルマ」という語の説明はとても多角的でわかりやすいです。

ヒンドゥーの世界の一員として生まれ、ヒンドゥーとして守るべきさまざまな義務はダルマ─法─と呼ばれる。
ダルマ(dharma)とは元来「支えを保つ」ものの意である。だから人間の「真実」を示す。しかし、その真実を宗教的に把握した人が他人に向かって説く時は、ダルマとは「教え」「教法」という意味にもなる。反面に、社会的脈絡の中で、人間が当然になすべきだと考えられる行為もまた社会を「支え保つ」ダルマであろう。これすなわち「倫理」といってもいい。さらにそうした生き方が社会組織の中で、大なり小なり、強制力をもつ行為パターンとして固定してくると、人間の社会的「義務」ないし「法律」もこのダルマに含まれてくる。
 ダルマの内容と権威はすべてヴェーダに由来する、とヒンドゥー教徒は考えている。ヴェーダは人間の造ったものではなく、天の声であり、神の啓示だという。だからシュルティ(Sruti)──天啓聖典──というが、原意は「神より聞いたこと」である。
(147ページ ヒンドゥー教徒の生活/ダルマとはなにか より)

古くヴェーダ文献に、人間には四種の負債があると記されている。四種とは神に対して祭祀、聖賢に対しては「ヴェーダ」の学習、祖霊に対しては子孫の繁栄、人間に対しては歓待の義務を負う、というものである。
(166ページ ヒンドゥー教徒の生活/霊魂は父祖の国へ行く より)

バガヴァッド・ギーターで説かれていることって、無理やり要約すると「義務に対するジレンマへのアプローチ方法350手」みたいな感じなのですが、その背景がこの説明だととてもわかりやすいです。

 

 

タントリズムシャクティ

ハタ・ヨーガの教典の中でもゴーラクシャ・ナータの「シッダ・ シッダーンタ・パダッティ」や、シヴァ派の教典「シヴァ・サンヒター」の記述に多い、タントリズムシャクティ信仰について、この本ではかなりのページを割いて詳しく解説されていました。

万物を男・女性原理で示すことは他の文化にもあるが、その方法や度合い、それに基づく哲学や宗教的行法の豊富さにおいてインドは群をぬいている。ここにはヒンドゥー教の性に対する禁忌が少ないことにも関係があろう。とにかく、この男・女両性によっていっさいの現象世界を示し、絶対者との関係を示すことこそ、後に述べるタントリズムの根本思想である。またシヴァ神を「半分男で半分女の主(アルダ・ナーリー・イーシュヴァラ)」と呼び、かく図示するのも同様である。そしてリンガ・ヨーニの結合もこうした世界観の上に成り立っている。それは具体的性愛の象徴ではなく、森羅万象の根元的実体のシンボルなのである。
(241ページ 快楽の思想/「半分男で半分女の主」 より)

 西暦前後の数百年というのはアーリア文化におおわれて下にあった土着文化が、しだいに表面化してくる時代だった。女神崇拝も、こうした文化の大きな流れの上の一現象とみていい。豊かでいっさいを包摂する母なる大地の女神はヒンドゥーたちをひきつけた。特に万物を生み、働かしめる根源のエネルギー、活動力が注目された。それは女性に内在する「能力」であるところからシャクティ(性力)という。西暦以降になって女神が男神と結婚するようになったのも、男神のさまざまな機能は結局シャクティによって活力を与えられ、働かされると考えたからである。
(256ページ 快楽の思想/「母なる女神」へのあこがれ より)

性力派の哲学や行法、儀軌はタントラという一群の文献に記されている。したがって、シャークタ派とはタントラ派といっていい。形式的に完全なタントラは、(一)教義と儀軌、真言、(ニ)ヨーガ(魔力をうる呪術を含む)、(三)神像の製作および浄化の方法、寺院建築の実際、(四)礼拝儀礼と社会的義務の四種を具えている。
 この派では神が性力と一体になることによって完全なものとなり、そのための秘儀として特殊な行法を発展させたが、それは人間の身体についての特殊な科学とかかわっている。
(257ページ 快楽の思想/シャクティ崇拝 より)

ヨーガの行法については方法自体がハタ・ヨーガ・プラディピカーにも載っていますが、この土着信仰からの流れを理解するだけでだいぶびっくりせずに済みます。
わたしはたまたまインドで知り合った国際ロマンス詐欺師がこの理論で口説いてくる人だったので、そのときに直接いろいろ聞きました。「半分男で半分女の主」の画像をスマホで見せ ながら「君は僕の半分だ」と言われたときに、この本にあった解説を思い出しました。

 

 

ラーム・モーハン・ローイ

この本で知った、ラーム・モーハン・ローイという人物の話がとても興味深い内容でした。
時代的には、詩人タゴールのお父さん(デヴェンドラナート)よりも少し前の人です。参考までに年代を並べると

  • ラーム・モーハン・ローイ(1772-1833)
  • デヴェンドラナート・タゴール (1817-1905)
  • ラーマクリシュナ(1836-1886)
  • ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)
  • スワミ・ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)
  • マハトマ・ガンディー(1869-1948)
  • オーロビンド・ゴーシュ(1872-1950)

革命というマハートマ・ガンディーやシュリー・オーロビンドの名前が浮かぶけれど、その100年前にこんな考えの人がすでにいた。

 彼の伝記(一八八一年出版)には、ローイ在世当時のバラモンの実体の一部を次のように記している。
聖典を学び、僧の仕事を一生続けているバラモンたちがいる。彼らは生きた新聞だった。朝早くガンジス河に沐浴し、太陽を礼拝する……それから、信者の家から家をまわってゴシップをまいて歩く。話すことといえば、誰だれさんはお父さんやお祖父さんの祖霊祭をこんな具合にやった、とか……こういう食事の饗応の仕方であった、とか、こんなお布施であったとか……気前のいい人を褒めつつケチな人をけなし……、名声を保ち、中傷をさけたい人びとにたかっている。」
(372ページ 改革の思想/ヒンドゥーの改革者たち より)

ハタ・ヨーガの教典に書かれている「つきあうべきではない人」の描写にもこういう記述があるけれど、こういう現状を淡々と見ていた人っていたんだな。未亡人の後追い焼身自殺の習慣(サティー)の禁止に貢献したといわれる人物なのだけど、サティーは後追いという体裁だけど「やっぱりやめたい」が通用しない。となったら他殺じゃんかそれ…という謎の習慣。
サティ、ダウリー、女児とわかった時点で行われる中絶、あるいは生まれた後に女児を殺す風習…、インドは知ると驚く風習がたくさんある。

わたしははじめにヨガを習ったのがインド人の先生で、働く独身女性に先生が投げかける「あなた日本人でよかったね。仕事もあって、油をかけて殺されなくて」という話をきっかけにインドの古い慣習について聞くことがあって、驚きはその時点で済んでいたのだけど、やっぱりこういう慣習は読むたびにしんどい。
インドは混沌の触れ幅が大きい国に見えるけれど、よくよく考えると日本も触れ幅という点では似たところがあると感じることもあり、この本は差別について日々感じることをあらためて見直すきっかけになる本でした。

 

生活の世界歴史〈5〉インドの顔 (河出文庫)

生活の世界歴史〈5〉インドの顔 (河出文庫)