うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

バガヴァッド・ギーター(Bhagavad Gita)


よく「どの本を買ったらいいですか?」という質問を受けるので、その回答の背景説明を兼ねて、過去に紹介したことのある本の特徴を書きます。
質問には

はじめは「へぇ。インドにはこういう聖書みたいなのがあるのね」という入りかたでしょうから、ならば「上村先生版(岩波)」を。
そして、それを読んで「もっとこの世界を感じたい」と思ったら、次に「嫺玉さん版」を読むのがいいんじゃないかな。

と回答しています。

ギーターへのとっかかりの背景にもよりますが、ギーターには訳のありかたとして
「学問筋」「うた筋(詩筋)」「説法筋」
というのがあると思っており、分類すると、こうです。

訳者・訳のありかた 事例
学問筋 サンスクリット語を訳す学者さん (一例)中村元、辻直四郎、鎧淳、宇野惇、上村勝彦(ほかにもいっぱい)
うた筋 サンスクリット語を訳せる日本人 (一例)田中嫺玉さん、日本ヴェーダーンタ協会
説法筋 スワミと名のつく人の解説を訳したもの たくさんあります。英文はとにかくいっぱい


軸足が学問にあるものは読んでいて感情を重ねにくいけど、日本語の感覚に引っ張られることが少ない。詩は、詩として読みやすい。説法解説が入るものは読みやすく感じる人もいるかもしれませんが、感情をあらわす語が増えるのでウエットになりがち。日本語の場合は漢訳仏教語が日常に入ってきているので、「インド思想を学ぶ」以前にインプットされた言語の印象にひっぱられることが多くなります。わたしは哲学をポエムな人生訓に寄せたものを読むと疲労するので(処世術に寄せるのはきらいではありません)、学問筋のものを好みます。


ここから少し、訳者側に意識を寄せます。
翻訳そのものの抱える宿命として

  • 内容重視。意味を間違えて解釈しないように訳す
  • 直訳ではわからないので、日本語の特徴を踏まえて訳す

という苦しみがあります(参考:文と質の論争)。
さらに、ギーターは「詩」。ヨーガ・スートラとは違い「音」もふまえた韻律の美があります。
目よりも耳から入れることを前提としているため、音にしたときの美しさやリエゾン、語の連結の関係から語が選ばれることもある。さらに、インドではひとりの人をさまざまな呼称で呼びます。化身もしちゃいます。おなじアルジュナでもクンティーの子になったりプリターの子になったりパーンドゥの子になったり(太郎の息子・花子の息子みたいなもの)、クリシュナも聖バガヴァーンになったりヴィシュヌになったりする。そこに音選びが絡んでくる。ラップのように韻も踏む。まろやかだけど。なのでギーターは


 教典や技術書よりも、訳すのが大変!


「学問筋の訳」には韻文調をどこまで再現するかという大きなテーマがのしかかり、多少はポエムっぽくなります。この寄り方もそれぞれ特徴があっておもしろいのですが、それは後で書くとして、わたしが画期的だったなと思うのはやはり


 田中嫺玉さん訳の登場


です。
正しさにも配慮しながら世界観を再現し、様式美にも寄せるというのは、学者世界ではやりにくいであろうことだから。田中嫺玉さんは学者さんではなく、翻訳者さん(いわばスペシャルな主婦)。学者先生の手ほどきを受けつつも、詩の翻訳として訳されたものです。
ときにパンチを効かせる日本語選びもすごく巧み(←ここ重要)で、学者さんだとカットできない略し方もわりと大胆にやっていらっしゃる。「儀式のなかで歌うには絶対カットしちゃダメだけど、残したら残したで違和感アリアリで興ざめ」みたいな、そういう葛藤ぬきには訳せないところの処理が「こころに響いてなんぼ」という軸で突き進んでいる感じがします。



と、ここまで田中嫺玉さん訳を絶賛しつつ、でも最初に読むのは上村勝彦先生の岩波版がいいかなと思います。
注釈もかなりのボリュームですし、新しい訳なので偉人過ぎる学者さんたちの訳意を参照された上でまとめられた、老舗のウナギのタレとおなじ醸成があります。上村先生の日本語選びも、「これはすばらしい!」と感じるものがたくさんあります。
日本語自体が変化しているというのもありますが、概念としてそもそも日本人にはない感覚(死ぬからには絶対解脱したいとか、カースト社会で生まれながらに職が決まっているとか)を日本語化していくむずかしさみたいなものを、上村先生の訳から感じることができます。
田中嫺玉さんの訳は、「美しすぎて、違和感をスルーしてしまう」という側面がある(これを嫺玉マジックと呼んでおります)。読んでいると気持ちよくなっちゃうので、考えずに読む癖がついてしまう。わたしは「違和感」というのは学びを継続するうえで大切な要素だと思うので、併読をおすすめします。


最後に、そもそも詩だから学者さんの訳もポエム方面に寄って行く件ですが、辻直四郎先生は親鸞、鎧淳先生は松尾芭蕉に寄っている気がします。こういうところがツボってしまうと別の学びになってるじゃないかという話なのですが、それはさておきギーターは何度読んでもグサグサくる書物です。聖典です。



▼過去に紹介したものはこちら

▼以下は英文