先日、ヨガでお会いした関西の方々と、二度映画化もされている遠藤周作著『沈黙』の読書会を開催しました。
噛み合わないふたり
この物語は島原の乱が鎮圧されて間もない時代のキリスト教・カトリックの人々の話です。
弾圧を受けながら密かに信仰を続け、ときに信仰を捨てたフリをしてまた戻ってくる日本人がいます。その、何度も蘇っては懺悔の機会を求める信者の「告解」のリクエストに司祭がうんざりする正直な気持ちが綴られています。
この司祭の心情が、わたしには何度か「グルになりたい人」に見える瞬間がありました。
この人物を外側から見たらまったくそうではないのに、小説ではその心情・中身を丸ごと読まされるので、そう見えてきます。
信者は自分が信仰を捨てていないことを“ただわかって欲しくて” 告解の機会を求めているのに
この司祭、なんかグル気取りじゃない?
と、素直に口にしたら、うなずいてくださった方が多く見えました。
ここにねじれがあるよねと話しました。
司祭のエネルギーの源泉は「憧れ」
この司祭はキリストだけでなく自分の師であった人物への憧れも強く、憧れをエネルギー源としている人物です。
この憧れが強すぎるせいなのか、信者がすがりついて来たときに、「ゆるされたい気持ち」を「憧れ」に変換しようとしているように見えます。
「迫害されているけれども信仰は捨てていない」というギリギリのバランスで生きている信者のほうが、そこに矛盾を生じさせているのは外部要因であって自分の心ではないと理解しており、自他の境界が見えていると言えないだろうか。
司祭は「憧れ」もセットで供給したいのに、信者は「憧れ」を求めていない。ただラクになりたい。そのくらい厳しい現実の中を生きています。
「告解」を「憧れ」とセットにしたら「忠誠」がもれなくついてくる罠を、この信者は自分では言語化しないけれど肌で感じ取っているようにも見えます。
この物語は、そこに何人も "天国に憧れて" 殉死する信者が混ざってくるので、司祭は「憧れ」のバリエーションの中で混乱します。天国には憧れるけれどもキリストには憧れていない村人に囲まれて混乱します。
* * *
今回複数の人の目で『沈黙』を掘り下げる中で、この迫害されている信者は “精神回復の手段として告解のシステムをうまく活用している” という視点にたどり着く瞬間が何度かありました。
自立して生活をし信仰も両立するには、その教え自体にある程度の社会的承認が必要です。
20年前にわたしが初めてヨガを教わった先生は、1970年頃から日本に住んでいたインドのかたで、ヨガの普及の定義を「保険適用になること」だと話していました。
そういう気持ちでインドから来た人がヨガを持ってきて伝えていても、日本人がヨガを取りに行ってそれを利用し、オウム真理教のような大事件に至るのが現実です。
さまざまな "事実は小説よりも奇なり" な現実社会を共有する人との話し合いはとても濃い時間で、いまを生きている感じがします。