うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

マヌ法典 ― ヒンドゥー教世界の原型 渡瀬信之 著


バガヴァッド・ギーターの注釈で目にしたことのある人も多いであろう、マヌ法典の本。今日は久々にボリューミィな感想文になるので、ついていけなそう……と思う人は、終盤の「マヌ法典にある、女性の承認欲マネジメント方法がすごい」というところから読んでください(笑)。
ギーターは「インド思想・各派折衷ダイジェスト」みたいな書ですが、そのなかにマヌ法典との重複があります。「法典」なので、リグ・ヴェーダにある内容をより人間社会用に定義したような内容で、イスラームでいえばコーランシャリーア法典のような違い。
「司法の神ヴァルナは人間のいかなる行為をも見逃さない。この考えは最も古い時代から人々の心の中にあった。(194ページ)」とあるのだけど、罪と罰の感覚は啓示宗教のそれ(アッラーは全部見ておるよ、秤にかけるよ、というような)ではなく、「それぞれにお似合いの地獄を用意しているよ」という内容。人が人を裁くことを神が命令している啓示形式ではなく、神がこう決めたということにしてバラモン階層で塗り重ねている。
このインド式の「罪」のとらえかたの感覚については、以下の説明がとてもしっくりいった。

<153ページ バラモンの罪概念 より>
古代インドにおいては、抽象的な概念を実体視する思想はむしろ一般的であった。苦行によって蓄積される力(タパス)、威力(テージャス)、バラモンが大切にするブラフマヴァルチャッサと呼ばれる知的精神的な輝き、あるいはまた善行による果報といったものはすべて実体視される。実体視されるからこそ、それらの発生、獲得、蓄積、消費、消滅等々が可能とみなされたのである。
 罪は感官への執着、規定の行為を行なわないこと、および禁止あるいは非難される行為をすることから生じるものとみなされた。そしてそうしたことは、『マヌ法典』によれば、心、言葉、および身体のいずれかによってなされる行為に還元されるのであり、したがって罪はこれらの三種の行為に応じて発生するとみなされる。

密教の「身・口・意」に通じるところなので後半に意識を向ける人が多いと思うのですが、わたしが焦点を当てたいのは前半。ここはそのままヨーガの思想にも仏教の思想にも通じている。わたしがイスラームを「垢抜けている」と感じるのは、この点をものすごくドライに性弱説に変換しているため。どこまでを五感や身体観と紐付けて認識できるか、共有できるかの線引きの違いだと思うのだけど、わたしは「わかる人にはわかる」というのは全体最適への遠回りと考えることもある。「わたしにはわかる」と言いたい人に愛されやすい構造がヒンドゥーにはある。上記はその理由がすごくわかりやすい説明です。


もうひとつ、この引用部の続きに、よくヨーガ・スートラの説明でも語られる以下の記述がありました。

心の行為によって生じる罪とは、例えば他人の財産を欲しがる、善くないことを思い描く、誤った考えに心を傾けるとかがそうである。言葉の行為による罪は、罵る、嘘を言う、中傷するなどで、無駄なお喋りもまたこの種の罪に数えられる。

(中略)

ここに見られるのはバラモンたちの間で作り上げられた罪概念であるが、それはかれらの罪概念の範囲の広さを示している。心の行為によって生じる罪の例が示すように、たとえ具体的な行為として表面化しなくとも、心に誤った考えを思うことがすでに罪である。また倫理道徳的な罪と犯罪とが同じ罪概念の中で同居する。

日本人が学びのときにフリーズしがちなのが、まさに最後の一行だと思う。日本の場合は「倫理道徳」の背景がかなり複雑なので、その土台の上にいきなりインド思想が被さってくると混乱します。ヨーガだけでなく他の宗教や日本の歴史もあわせて学んでいかないと、日常のなかで飛び交う思考との両立がしんどくなる。インド哲学の勉強が長続きしない人が多い理由は、わたしはここにあると思っています。



さて、ここから少しおもしろいところを紹介します。この本には最後のほうに罪と刑罰の表があるのですが

■暴行障害
罪:最下層者が上位人間に暴行劣等の生れの者が上位者にたいして
刑罰:使用した四肢を切断

刑罰
1. 唾を吐きかける 唇切断
2. 小便をかける ペニス切断
3. 放屁する 肛門を切り取る
4. 頭髪、足、髭、首、睾丸を掴む 両手切断
皮膚を裂く 罰金100パナ
肉を切る 罰金6ニシュカ(金24スヴァルナ)
骨を折る 追放
低位ヴァルナがバラモンに危害を加える 意図的:恐怖を与える責め道具で打ち据える

こんなかんじです。
放屁より骨折させるほうが軽い感じがするのですが、このあたりは「放屁ネタ」で人の心のありようを推し量った夏目漱石グルジに報告したいところですね。


という話はさておき、
マヌ法典の大きな特徴はやはりカーストの定義(ヴァルナ)を明確にしていること。

<11ページより>

  • ブラフマンは、)諸世界の繁栄のために、(彼の)口、腕、腿および足から(それぞれに)バラモンクシャトリヤ、ヴァイシャおよびシュードラを生ぜしめた。【1.31】
  • 威光燦然たるかの者(ブラフマン)は、このいっさいの創造を守護するために、(彼の)口、腕、腿、および足から生れた者たちに、それぞれに特有のカルマを配分した。【1.87】
  • バラモンには、(ヴェーダの)教授と学習、供犠、供犠の司祭、贈物をすること、贈物を受け取ることを配分した。【1.88】
  • クシャトリヤには、人民の守護、贈物をすること、供犠、(ヴェーダの)学習、感官への対象への無執着を結びつけた。【1.89】
  • ヴァイシャには、家畜の保護、贈物をすること、供犠、(ヴェーダの)学習、商いの道、金貸し、農耕(を配分した)。【1.90】
  • シュードラには、主はただひとつのカルマしか命じなかった。上述のヴァルナに対し嫉妬することなく奉仕することである。【1.91】

リグ・ヴェーダの時代には「困ったときは、バラモンさんに頼るべし」くらいのノリであったものが、ここまで定義されるようになります。
掘り下げどころはいくつかあるのですが、やはりヨガをしている人であれば気になるであろう、クシャトリヤの「感官への対象への無執着」のところにいったん寄ると、ここはギーターとよく似ています。マヌ法典とギーターは時代的にシンクロしているとして(細かく掘ると諸説あるけどおいとく)、マヌ法典に定義されているこれが両者を結び付けているものと思われます。

ギーターって、本当に巧みな聖典クシャトリヤ(武士)をフィーチャーし、神と結び付くストーリーによって、バラモンも巻き込んでいる。そしてメッセージ自体は活動者、奉仕者を励ましまくる。巧妙なのはやはり「この世でもあの世でも」ってところ。あのガンジーですらも打ち破れなかったカースト制度の根っこに、こんな定義があったとは。
ヴァルナ制度については、日本人は「カースト=差別」と思いがちですが、区別なんですね。以下の説明を読むと、少し理解が変わると思う。



<142ページ 生計 より>
人間の優越を決めるのは、バラモンのあいだでは知識、クシャトリヤの間では武勇であるが、ヴァイシャの場合は富であるとみなされた。『マヌ法典』は言う。
ヴァイシャは正しく財産を増やすことに最大の努力を払い、努めてすべての生き物に食べ物を供給すべきであると。商売をする者は、宝石、真珠、珊瑚、勤続、織物、香、調味料の価値の相対に熟知し、あらゆる種類の計量器の使い方、品物の長所・短所、産地の長所・短所、商品に伴う利益と損失、使用人の賃金、さまざまな地方の言語、品物の保管の仕方、そして売買について精通しなければならない。また農耕に携わる者は、種まきの時期、耕地の良し悪しについて、牧畜を生業とする者は家畜の増産の仕方に熟達すべきである。また正業に従事し得ないときは、シュードラの生計手段が採用される。
 シュードラの正業は奉仕である。生活のためにはいずれのヴァルナに仕えてもよい。しかし天界を望むならば、最上位ヴァルナのバラモン、それもヴェーダを知り、家長として一家を構えかつ評判の高いバラモンに仕えるべきである。主人は、かれの能力、熟練度、扶養人の数を考慮して、食べ物、屑穀物、古着あるいは古道具などを与えて生計のめんどうをみることになる。いっぽうシュードラは富の蓄積を禁じられる。その理由は、金持ちになるとバラモンに危害を与えるからであるという! また奉仕が正業とされるにもかかわらず、シュードラの場合もさまざまな生き方をしていたことが窺われる。正業が得られず、妻子が飢えに陥るという窮迫時には、技術職や手工芸に従事することが許された。他にも肉体労働者や小作人、床屋あるいは牛飼いのシュードラも言及されている。

職種自体は意外とボーダレス。「なにに一生懸命であるべきとコミットする身分か」ということを定義している。これがなくても働ける日本人はある意味すごくて、そこが沸点を超えて貯蓄する人が増えたら働かない人も増えてきた。ということだろう。ヴァルナ制度って、国家が身体のようにずっと呼吸しつづける前提で設定された、臓器の役割分担のようなもの。ガンジーもそのような考え方をしていたのではないかな(参考「ガンジーの危険な平和憲法案」)。



この理念のまとめられた時代は、こういう流れ。

<15ページ ヴァルナ体制とその理念 より(箇条書きにします)>

  • この体制派ダルマ文献作者の独創ではなく、B.C.8世紀を中心とするブラーフマナ時代社会で形を取りつつあった体制。
  • ダルマ文献の作者たちは、4ヴァルナを世界の創造主の神意に基づき、歴史的な産物ではないことを理論化した。
  • リグ・ヴェーダ」のプルシャスークタ(10・90・12)を利用し、原人プルシャを創造主ブラフマンに代えて継承した。

強引だけど、よく作っちゃったもんだと思う。




仏教でもおなじみの学生期、家長期、林住期、遍歴期の説明もある中、ここはほんとうに「インド式学問」のすごいところだと思う説明。

<44ページ 『マヌ法典』における人生モデル(1)より>
 ダルマ・スートラにおいて示された人生の生き方に関する妥協案は、対立する二つの価値観の共存を図ったことの所産である。正統ブラフマニズム世界のバラモンたちは、一般的に言って、かれらの価値観と相容れないそれに遭遇するとき、相手に徹底的に戦いを挑むという戦術は採用しない。異質なものとの共存を図り、それを取り込む道が探られた。しかしながら今の場合、ダルマ・スートラの案のままでは共存はどだい無理な相談であったろう。というのも、家長を選ぶか禁欲主義を選ぶかは任意である限り、事態は妥協案が練られる前とまったく変わりがなく、多くの若者が学生を終えた後、禁欲主義の道を選択するならば、伝統世界の危機は少しも解消されないからである。

ここの、「異質なものとの共存を図り、それを取り込む道が探る」というところです。インド人は議論好きですが論破を目指すという感じではありません。眼ヂカラとか顔や口調のパワーがすごいんでついそう感じてしまいますが(笑)、インドでは「論証学」というのがすごく栄えていて、こういう学問のありかたはすごくデジタルに強い。見えないものを一生懸命に語ろうとすると、逆の方向に振り切れるというのはとてもおもしろい。
そして、この議論の骨子でありギーターの読書会でもよく話す「みんなが解脱を目指して隠遁したら、インドが回らなくなっちゃうんでね」というジレンマはこの本を読むとよくわかるのですが、なんとあのカピラが悪者っぽく扱われているダルマ・スートラがあるそうです!



<41ページ ダルマ・スートラにおける人生モデル より>
禁欲主義的な生き方についての態度は揺れ、そして割れた。最も厳しい態度で臨んだのは『バウダーヤナ・ダルマ・スートラ』の作者であった。かれは、生涯の生き方は伝統的な家長のそれが唯一であり、巷に見られる禁欲主義の生き方は邪悪な神、カピラが神々に対抗しようとして捏造したものに他ならず、けっしてそれらを尊重してはならないと主張する(2・11・26)。『ガウタマ・ダルマ・スートラ』の作者もこれに同調する。

「カピラ仙」ではなく「邪悪な神」という書かれ方なので、「Srimad Bhagavatam」というのに登場するカピラさんとまたずいぶんイメージが違う扱いになっていますが、おもしろい切り口。そりゃ、こういう意見もなきゃおかしい。そりゃそうだと思った。
マヌ法典が人生に対峙する姿勢はきわめて前向きであると94ページで著者さんが語っているのですが、わたしも全体からそのメッセージを感じる。この本の中では、このような解説文になっていました。とても素敵だったので抜き出します。

 幸せを得がたいと思ってはならない、失敗しても自己嫌悪するべきではない、死ぬまで幸せを追い求めるべし。これが人生である。

どこかで見覚えのある、このトーン。そうだ! この人だ!
すごいなぁほんと。100万回キュン死してしまうわ。




話を少し「リグ・ヴェーダ」の利用、というところへ戻します。著者さんは5ページで「『マヌ法典』の中で展開される世界創造の物語について、もしも体系的で鮮やかな語り口を期待するならばその期待は完全に裏切られる。」と書かれていますが、わたしはこの著者さんの『マヌ法典』の以下の部分の説明にシビれました。

<4ページ 「創造主ブラフマンの誕生」「世界の創造」にまたがる部分より>

  • 彼らは自らの身体から種々の生類を創造しようと浴し、熟慮した後、まず初めに水を創造し、その中に種子を撒き落とした。【1.8】
  • それ(種子)は太陽のように輝く黄金の卵となった。そしてその中にいっさいの世界の祖父、ブラフマンが自ら誕生した。【1.9】


世界の創造
 ブラフマンは黄金の卵の中で一年を過ごした後、卵を二分する。殻の一方で天を、他方で地を造り、中間に中空、八方角、水の永遠の住処(海)を配置した。次いでかれは精神要素と物質要素を混ぜ合わせ、思考力マナスを加えて自らの身体を造り上げた後、それらの要素を混合することによって創造の作業に着手する。

このマナスの説明、お料理みたいでわかりやすい! サーンキヤでは面倒なポジションに落ち、ヴェーダーンタに至っては居場所がない感じになり、今となってはバブル以降のお父さんのような存在で扱われがちなマナス。昔はこんなに大切なところで投入されていたんですよ!(マナスのポジショニングを追うと、インド思想の学びはとてもおもしろくなりますョ)


そのあとを要約すると、マヌ法典ではこうなっているそうです。

ブラフマンが自らの身体から生み出し「創造」した順序)

  • 被造物に不可欠な三要素「名称」「行為」「機能(カルマ)」および形
  • 自然や生類の上位に対して「それらを統括する神々」「祭祀」「三ヴェーダ
  • 自然や生類それぞれにとっての基本要素「時間」「時間区分」「星辰」「太陽と月の蝕」「河」「海」「山」「大地の平坦」「苦行」「言葉」「快楽」「欲望」「怒り」「二律背反(善悪、正不正、幸不幸など)
  • 世界繁栄の使命を担う4ヴァルナ

リグ・ヴェーダ」のなかに、あまりにも美しく巧妙な「宇宙開闢の歌」というのがあるのですが、その流れからこうくるかー! という感じがします。ブラフマニズム、おそるべし。




「マヌ法典にある、女性の承認欲マネジメント方法がすごい」
マヌ法典はとてもおもしろくて、このおもしろさは「カーマ・スートラ」にも通ずるのですが、女性の同性愛の罪と刑罰が「少女同士の場合」「大人の女性と少女との場合」で明確に分けて定義されています。女性についての考え方が、とにかくおもしろい。

<98ページ 妻の貞節 より>
 妻の貞節と従属が強く求められたのは、単に夫婦和合と天界のためだけではない。もっと実際的で切実な理由があった。『マヌ法典』は女の本性についてしつこいくらいに言葉を重ねる。女は魅惑的で、男を惑わし駄目にする。しかも女たちは、男の容姿も年齢も気にせず、ただ男であると言うだけでかれらを受け入れる。女たちは注意深く監視されても男を裏切る。この女性観についての評論はさておき、これもまた確かに、ダルマ文献の作者たちの抜きがたい女性観のひとつであった。そして妻にたいする貞節と従属の要求がこの女性観と無関係でないことを認めなければならない。


(中略)


 妻として恐らく女性一般に対して神経質なまでに注意深かったことの背後には、かれらの女性観と社会秩序とそして家の問題が絡んでいた。それだけに妻の不貞をいかにして防ぐかは重大な関心事であった。妻の監護の仕方にまで気が配られる。力ずくによる監護は不可能であり、召使いをつけて家に閉じ込めるなどな愚の骨頂である。最善の方法は妻が自分で自分を守ることであり、そのためには、妻が家における彼女の役割と意義を自覚するように遇することこそ肝要である。『マヌ法典』は、便法として、例えば収入と支出に関して係わりを持たせ、清め、ダルマ、料理、家具の管理等に彼女を参加させるなどを推奨する。

すすんでるぅ♪ この時代に「女性の承認欲マネジメント」に焦点を当てているって、すごいよね。



最後にもうひとつ。これは男女共通のもの。偽証罪の区分もすすんでる。

刑罰
貪欲からの偽証 1000パナの罰金
頭の混乱からの偽証 最低罰金
嚇されて偽証 中位罰金の二倍
友情から偽証 最低罰金の四倍
愛欲から偽証 最低罰金の十倍
怒りから偽証 中位罰金の三倍
無知から偽証 200パナ
幼稚からの偽証 100パナ

とりあえず判断能力がなかったことにして「頭の混乱からの偽証」を目指したり、幼稚だからtwitterにいたずら投稿しちゃったヤングをテレビで報道するまで追い詰める今の日本より、うんと進んでる。


日本は法治国家ってことになっているけど、精神性と共有する道徳概念がバラバラなので、宗教国家に対する遅れがどんどん拡っている気がする。
ヒンドゥーイスラームから学ぶことはとても多いのだけど、人気がないんだよなぁ。残念。