うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

デキる上司から学んだ、あんなことやこんなこと

今日は少し、昔話から書きます。
わたしが数年前にインドで毎日いろいろな人が練習にやってくる場(Tattvaa Yogashala)で学んだことについて、久しぶりに考えてみました。

 

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(クリシュナ・ガートの目の前にあります)

 


いま思うと、そこでの学びは新入社員が現場の上司や先輩から学ぶことと似ていました。一般的にテキスト化・マニュアル化しにくい定性的なこと。
詳細はケースバイケースだけど強引にまとめると、他人と同じ号令で動きたくないという人の意識の根底にある満たされなさは与(くみ)しようとしても無理があること、そこへ対応すると全体として練習の質を下げざるを得なくなるダブルバインド、そういうさまざまな判断の場面に居合わせることで教えてもらったことがたくさんありました。


わたしはこの上司のような存在の人を「親方」と呼んでいます。実際会っているときは「Teacher」と呼んでいます。この翻訳が、わたしのなかでは「先生」でも「師匠」でもなく「親方」。
ちょっとした会話の中で親方が示す「そのことについては明言しない」という態度を見るたびに、なにかを教わったと感じます。いつ役に立つのかはわからないけど、でも役に立つときがくる。実際、あのときのあの判断はこういう背景があったのかな…、と思うことが今でもあります。

今回7年ぶりに、ほんの数日だったけれど再び稽古に参加させてもらって、さまざまな面で十数年前から受け続けている影響の幅と大きさに気がつきました。「継続していくということは、こうやって自分の意志とパフォーマンスを最優先しながら場を作り出していくものなんだ」と、そう思うことが何度もありました。それは間違った自己犠牲に対する戒めでもあって、親方はさりげなく練習中に指摘してくれる。「そこは、やりすぎるな」とか「放っておけ」と言ってくれる。

ガンジス河の流れる聖地で、偉大なるグルのもとで再び学び… なんてムードは1ミリもなく、近くに居るとドラゴンボール孫悟空のような調子で活力がわいてくる。自分の中で、主語が「わたし」から「オラ」になっていく。わたしにとってのジャッキー・チュン的存在。(亀仙人じゃないとこがポイント)


今回、久しぶりだなと言われて少し座って話す機会がありました。その話題の9割以上が「景気」「社会」「世の中」の話。ヨガの話はまったくしていません。それは練習のときに見せているからというのもあるけれど、とくに話すこともないのです。
はじめて練習に参加した頃はオウンペースかつハイスピードな親方の実行力とエネルギーに畏怖の気持ちがあったけれど、ゆくゆくはCEOのようになる人だったのでした。次回会う頃には親方ではなく会長と呼んでいるかもしれない。今回はそのような、まるで昔の会社の先輩に再会するような感覚がありました。

 
親方は数多くの生徒を見てきた人だから、わたしの名前は覚えていないだろうと思ったらやっぱりそうで、それでも関係性は記憶しておられるようでした。わたしが「いまからOKAERIが、ここへやって来ます」といえば「おー。あいつ、ぜんぜんここに顔を出さねーぞ!」とおっしゃる。太陽のようなジャイアニズム。(親方は「cafe OKAERI」の店主ミチコさんを店名で呼ぶので、わたしも親方の前ではOKAERIと呼んでいます)
俺の部下の友だちは当然俺の部下!みたいなワンマン上司的発想だな…と思ったけれど、こういうちょっとした心のなかでのツッコミは読み取られるので気を引き締めます。
そんなこんなでいつも緊張するのだけど、途中でミチコさんが合流してからは彼女が対応してくださり、二人が話す超・超・超・早口ヒンディはとてもリズミカルで、まるで横山やすし横山やすしが漫才をしているかのようでした。
インド人だからって、リシケシのヨガの先生だからってヨギー風を吹かせない。指導中はキヨシだけど、それ以外のときはヤスシ。というか指導中もけっこうヤスシ。あらためて尊敬すべき師と思って帰ってきました。

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7年前のやすし&やすし
(こう見えて、ふたりとも仕事の精度がめちゃ高い…。やすしだから)

 

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