うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

愛欲の精神史1 性愛のインド 山折哲雄 著(【1】性愛と狂躁のインド)


「おっと、そこ、そんなに掘り下げますか」という異色のコンテンツのオンパレード。
ヒンドゥー教の四住期説と仏教の四諦説を並べて、最終目標を「遁世」とするか「道」とするかの差異をと捉えていく過程などは読んでいてすごくおもしろかったし、パーニニさんについて珍しい角度からのお話もあった。
「無常」について、ただしく釈迦の思想を説明しつつ

短調の「無常」と長調の「無常」 より>
そこには、平家一門の栄枯盛衰に注ぐ滅びの美学や無常の風を詠嘆するセンチメントなどは、はじめから宿ってはいない。

と、説明してくださる。わたしもよく座学で話すのですが、インド思想から来た一刹那(ポール牧が指パッチンを一回する瞬間の 1/45)という超一瞬の速さで転変してるという科学的な話ですらも、いちいち演歌調ヤンキーマインドで脚色解釈される日本。もっと普通に学べないものかと思う。



<世界の逆転を志向する観照的思考 より>
 われわれはまず、弁証法の偽善的なワナから身を翻すことからはじめなければならない。されば大地と等高にのびる視線のかなたに、いままで気づきもしなかった世界が輝きだすだろう。── そこにこそ、インドの哲学思考によって生み出された叡智の片鱗が変幻自在に立ち上がってくると思うのである。

そうそう、「弁証法の偽善的なワナ」。わたしのいう「演歌調ヤンキーマインド」はこれ。



<数学的「空」と文法学的「脱落」の一体性 より>
パーニニのテキストの基本的立場は、言語構造の中に、対立ではなく比較を導入し、機能上の同化作用を明らかにする点にあった。具体的にいうと、一方に抽象的な「原要素」というものをたて、他方に感覚的な「現象世界」をおき、その両者のあいだに存する関係を類推の方法によって結びつけようとしたのである。

(中略)

つまりヨーロッパの構造言語学が、「意味するもの」と「意味されるもの」の対立によって言語現象を解釈しようとしているのとは異なっている。なぜなら言語における「意味するもの」と「意味されるもの」の結合の関係には、相互に依存する両義的な両方向的な条件づけがみとめられるからである。

パーニニさんはサンスクリット語を体系立てた人で、文法学と「脱落」(尻切れトンボみたいになったり途中で体言止めみたいになる感じ)について書かれています。予備知識がないとむずかしいところなのですが、この「脱落」を解説することができたバラモンと、それを伝承していくコメンタリー文化に身を投げ込むと、インド哲学のワンダーランドに入って行ける。すごく楽しい世界ですよ。



<「法空」と「縁起空」─ 哲学の根本命題をめぐって より>
 そもそも法(ダルマ)dharma という言葉は、古代インドでは、社会制度、慣習、道徳、法律、宗教、義務、正義などというように、きわめて広い意味に使われていた。たとえば、アショーカ王の有名な「法勅」の中にでてくる「法」の言葉なども、きわめて多義的に用いられているのである。
 ところが仏教が成立するにいたって、この伝統的な法の概念に変化が生じた。その本質規定に深い内省が加えられ、法についての考え方が大転換をとげた。たとえば、それまでは「法」の中に含められなかった「悪」や「煩悩」が原始仏教においてはじめて「法」の中に加えられるようになった。

プルシャもそうだけど、時代や書物の背景、教派によって意味が違うものは多い。とくにdharmaは「○○ダルマ」というふうに、他の意味とくっつけて使う単語が多いけど、あまり自分の悩みに引き寄せないで読まなければいけない。たとえば先日書いたsvadharmaも、もともとはカースト社会のしくみと紐づいているので、日本人の感覚で使うことは、実はないはずなんですよね。



和辻哲郎による「法」の考え方 より>
すなわち和辻は、「法」と「法によって存在するもの」を区別した。「法の領域」と「存在の領域」のあいだに明確な一線を引いたのである。この現象世界においては、過ぎゆくものそれ自体が「法」なのではない。過ぎゆくものがそのものとしてあらしめられる「かた」としてのものが「法」なのである。法(法の領域)が無常なのではなく、法という「かた」において流転していくもの(存在の領域)が無常であるということになる。

ギーターでプルシャと至高のプルシャに線を引こうとするのに似ている。分解して終わりではないなにかを置こうとしているように見える。ここはまだついていけない。グルジの門下生はすごいなー。




和辻さんを批判する平川彰さんの分解のしかたも、かなり興味深いです。

 ともかく和辻博士の説かれた「存在の法」は、倶舎論で言えば自性よりも自相に近いものである。自性は存在であるが、自相は対象と認識との関係において成立するものであるから、「かた」という観念をふくみうると思う。


といい

「法の領域」と「存在の領域」に分けてしまうかわりに、そもそも「法」の中に自性(物質性)と自相(観念性)を見分けることによって、「法」にかんする柔軟な解釈がすくいあげられるだろうとする。

という見かたをされています。
「自性=プラクリティ」という理解まではまったく一緒でよいのですが、ヨーガの場合はとっとと解脱する方向へまっしぐらなので、「観念性、あるね。しってるー。でもその分別智を離れてナンボだからさ」という感じでサッと切り離しに行く。そこを掘り下げて空にたどり着こうとする仏教に比べるとずいぶん体育会系。仏教の人は頭のスタミナが違う。




マックス・ウェーバーが好きな人にはこのへんもおすすめ。

<「禁欲」と「神秘」を鳥瞰する視点 より>
ウェーバー自身の問題としていえば、その後かれの関心は、このかれにとっての神聖軸であった「禁欲」主義にたいして、もう一方の極に「神秘」主義という神聖軸を打ちたてることに注がれるようになった。「神秘」によって「禁欲」を相対化する試みといってもよいだろう。それが「禁欲」と「神秘」という、二項並立もしくは二項対立の類型論の形成へとみちびいたのである。宗教の現象には「禁欲」主義を唯一の栄養として発展するものがあると同時に、「神秘」主義を母胎として生成するものがある。── その二つの宗教類型が他の高峰を鳥瞰する視点を、かれは築きあげようとしたのである。

漱石グルジと似ている。



ウェーバー晩年の試練 ── 人間的苦闘と理論的苦闘 より>
神秘主義は性愛と親和な関係なるとともに、容易に性愛に転化しうるものだとウェーバーは考えていた。また一方で、神秘的瞑想はしばしば怠惰な放縦に流れ、自己を神と幻想して情感の世界に耽溺する傾向を示す、ともいっている。その放縦と耽溺と自己神化が性愛の悪魔的な動物性と手を結ぶとき、容易ならざる事態に陥ることに、かれは警鐘を鳴らしてもいた。つまり、神秘主義は性愛ときびすを接するとき、いつでも「動物性の復讐」と「狂躁道への転落」という危険にさらされることになるというわけである。

ここは鋭くて、読んでいてゾクゾクしました。




ヨーガから入ってインド思想を学ぶと「カーリー崇拝」「シャクティ信仰」「シヴァ派」「ヴィシュヌ派」などの枝葉の解釈に入っていくことになりますが、この本は「性愛」ベースなので説明がおもしろい! 雑学コラムっぽく読めます。一部を紹介しますね。

<カーリー女神に捧げる「血の犠牲」より>
人間の犠牲はインドでも古くからプルシャ・メーダ(人身御供)といい、それが、ある歴史的段階で動物犠牲に席をゆずったということになっている。

いつごろまであったのだろう。



<性器崇拝にみる二つの宗教類型 ── シャクティ派とシヴァ派 より>
シャクティ(性力)崇拝は、情動的、秘教的なヒンドゥー教の最左翼に位置づけられるセクトであったが、その情動性、秘教性をやや緩和したものが、「シヴァ派」である。

微妙なあの感じを大胆に説明してくれてスッキリ。



<性器崇拝にみる二つの宗教類型 ── シャクティ派とシヴァ派 より>
シヴァ派には、やがてシャンカラ(700? ─ 750?)という禁欲的な聖者が登場し、倫理的な改革をすすめた。かれはインドの正統哲学ヴェーダーンタ学派の大成者であり、厳格な僧院システムと禁欲的な菜食主義を採用して宗教改革をおこなった。その結果、血の犠牲が禁止され、狂躁と恍惚を喚起する性器崇拝が大幅に抑圧されることになった。シャクティ派の五摩字儀礼に象徴されるような肉食主義(カニバリズム)が後退し、それにかわって上位の聖性を保障する菜食主義(ベジタリアニズム)が前面に浮上してきたといってよいだろう。そしてその改革を理論化する支えとなったのがシャンカラの奉ずるヴェーダーンタ哲学だったのである。

ここでも際立つシャンカラの巧妙さ。「倫理的な改革」という要約にうなる。



<性愛から聖愛への昇華 ── ヴィシュヌ派 より>
ヴィシュヌ派は、ヒンドゥー教世界では、神崇拝をめぐる菜食主義の最右翼を占めるセクトであったといってよいだろう。狂躁と恍惚を鎮静し抑制する宗教類型として、しだいに正統的な地位と権威を手にしていったことを忘れてはならない。ヴィシュヌ神が、インドのカースト社会において最上位を占めるバラモン階層の、いわば、もっとも信頼される守護神とされてきたゆえんもそこにある。

「性愛から聖愛への昇華」って、うまいタイトルつけるもんだ。


この本は、「決めつけて勢いよく進みすぎでは」感じるところもありますが、頭の中で地図や年表を描きながらインド思想を学んでいる人には、すごく楽しい内容です。


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