うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録(スワミ・ゴヴィンド・シャヒド 訳)

1969年にインドのグジャラート州ドゥワルカで行われた瞑想キャンプでの講話録です。
OSHOことバグワン・シュリ・ラジニーシという人物の書物は、わたしがはじめてヨガを教わったインド人の先生が「結局逮捕されちゃった人」というふうに話していたこともあり、なんとなくいぶかしげに思っていました。
ですが、今年のゴールデン・ウィークに行ったインドでとても話のうまい人に出会い、その人がOSHOの本を愛読しているというので気になって読んでみました。その人のおもしろかった話の元ネタもあったりして、話術に魅せられながら読みきってしまいました。OSHOは、言語についての感覚が細かい人なんですね。

以下の赤字のところは本文に強調点がついている部分です。

「神がいる」というのはくどい。なぜなら、神とは<在るもの>の別名だからだ。<在る>というそのことが神なのだ。したがって「神がいる」というのは同語反復(トートロジー)だ。正しくない。
(114ページ/1969年10月29日・夕方の説法より)

ほかにも「フィロソフィー」と「ダルシャン(インドの場合の言い方。「視かた」を示します)」の違いの説明などは、まるで池上さんの授業のようです。

 

 

ときどき、異様に鼓舞されます。

足は歩くことによって強くなるのだ。目的地にたどり着くことはさほど重要ではない。真に重要なのは、旅人が、追い求めてゆくなかで、より強くなることだ。何かにいたることは、いたった人間の変容ほどには重要ではないのだ。
(238ページ/1969年10月30日・夕方の説法より)

「人は」でなく「足は」とくる。細かいところでグイッと持っていかれる。

 


以下は「肉体を離れたあとで、霊魂がさまようことはありますか?」という瞑想キャンプ参加者の質問の後に滾々と続く説法のあと、同じ人が「誕生を待っている魂が誰かの肉体に入りこんで、その人を苦しめることはあるのでしょうか?」と訊ねた後の回答なのですが、魂に肉体が入り込む件はいったん置いておいたとしても、なんというか、すごくよいアイデアだと思います。

 覚えておきなさい。恐怖は非常に深い意味を持っている。恐怖とはあなたを縮ませるもののことだ。恐怖のうちにあるとき、あなたは縮む。幸せなとき、あなたは膨らむ。恐れのうちにあるとき、魂は縮みあがっている。その結果、肉体の中で大きな空間が空っぽのままにされ、そこに別の魂が入りこんで占領してしまう。それもひとつだけではない、多くの魂が一度にその空間に入って居すわることだってありうる。こうして、人が恐怖の状態にあるとき、魂はその肉体に入り込むことができる。そして、魂がそんなことをする理由はただひとつ。その魂の欲望がことごとく肉体につなぎとめられているからだ。他人の肉体に入りこんで欲望を満たそうとするわけだ。これは間違いなくありうることだ。それを裏づける完璧な事実がある。これはまったく現実の話だ。
 つまり臆病な人間はつねに危険だということだ。いつも縮みあがった状態にある。いわば自分の家の一部屋のなかだけで生活しているようなものだ。残りの部屋は空いたままになっているので、よその客に占領されることもある。
(144ページ/1969年10月29日・夕方の説法より)

縮むとスペースができる(=隙ができる)という考えは、クヨクヨの連鎖を止めるのによい。ひとつの失敗をきっかけに些細なうっかりミスまでマイナスの感情といちいち紐づけて、しまいにはコンビニに傘を忘れて帰った程度のことまでひきずる。そういうメンタルのデフレスパイラルを止めるのに、この考えかたはよいな…と思いながら読みました。


ヨーガ・ニードラーの背景にある考えかたもそうですが、インドの昔の書物は眠りについて多くを語っていて、それをまた現代社会でOSHOが語ると、うまい…。

 眠りのなかで、われわれは瞑想のなかでたどり着くのと同じ楽園にたどり着いている。ただ、それに気づいていない。夜毎われわれは、この楽園に旅する。そして帰ってくる──何も気づかぬままに、そこの爽やかな風と芳しい香りに触れ、鳥の歌声が耳のなかで響いていても、けっして気づかない。しかし、まったく何も気づくことなくこの楽園からもどってくるにもかかわらず、人はこういう。「今朝はとても気持ちがいい。とてもなごやかな気分だ。きのうはよく眠った」と。
 何でそんなに気持ちがいいのだろう。よく眠るとどんな良いことが起こるのだろう。ただ眠ったからというだけではあるまい。
(158ページ/1969年10月30日・朝の説法より)

 いかに緊密に、いかに深く、われわれが眠りと結びついているか、あなたがたには思いもよるまい。
いかに生を生きるか、それはひとえにいかに眠るかにかかっている。よく眠らなければ、その人の生全体がひとつの混沌となる。
(162ページ/1969年10月30日・朝の説法より)

わたしがどーーーしてもなるべくヨーガ・ニードラーをアーサナの練習の後に入れたくなる理由もこれなのだけど、OSHOが語るとグイッともっていかれる。

 

以下は、いまの日本だったら炎上しそうだけど、よくもこんなに完結に説明するものだと思う。

子供が病気になったときは、あまり心配しないことだ。そうすれば、子供の心のなかで、病気と愛のあいだにつながりが成立することはない。病気になるたびにお母さんは頭をなでてお世話をしてくれる、などという印象を子供に与えるべきではない。むしろ、母親は子供が満ち足りているときにこそ、甘えさせてやるべきだ。そうすれば、愛は喜びと幸福に結びつく。
 われわれは愛を惨めさと結びつけてきた。これは非常に危険だ。というのも、人は愛が必要になるたびに、惨めさを呼び寄せるようになるからだ。
(180ページ/1969年10月30日・朝の説法より)

「みじめ」という言葉の選び方が絶妙。行為と印象と記憶について、もっと子ども側の立場で考えるべきじゃないかと思うことの指摘を、この文字数で終わらせてるのがすごい。

 


日々自分は思考をしているようでいて、それはすべて武装であるよなぁと思うことについても、よくもまあこんなに完結に説明してくれるもんだ。

 そう、都合のよさが思考を形づくるのだ。われわれの思考はわれわれに都合のよいものでできている。思考はすべからく好都合なものを育むか、あるいは不都合なものを排除するかだ。洞察(ヴィジョン)はまた別のもの。洞察は都合のよさとは何の関係もない。だから、覚えておきなさい。洞察を得るということは、タパスチャリア、すなわち、真理を知るための深い個人的な働きかけなのだ。タパスチャリアとは、人が自分の都合にこだわらないということ。そうではなく、何であれ在るものを、どのようであれ在るがままに、人は知らねばならないということを意味する。
(284ページ/1969年10月31日・朝の説法より)

わたしは思考がパワーアップするときに注がれるガソリンは復讐心だろう思っているので、これには納得。ものすごく納得。

 

まえに感想を書いた「占星術師たちのインド」という本に、昔からインド人が泥棒に悩まされ、そのたびに身内を疑っていたという話があったのですが、そんなインドの社会背景を踏まえて以下の結婚についての話を読むと、おもしろいです!

 これがわれわれが恋におちるのを恐れる理由だ。相手をつぶさに調べあげ、すっかり安心したうえで、それから恋におちるということだ。そのために結婚というものが発明された。まず結婚する。まず最初にあらゆる必要策を講じておく。それから恋におちる。──なぜなら、愛は危険だからだ。愛は流動的であり、人は誰のなかに入りこんでゆくかわかったものではない。見知らぬ人と恋におちるのは危険だ。その人はあなたの貴重品をかっさらって、夜のうちにこっそり逃げて行ってしまうかもしれない! だから、まず第一に相手がどんな人間か、何をしているのか、両親はどこの出身か、その人はどういう性格なのか、長所は何か、しっかり確認しておく。あらゆる手だてを講じ、充分な社会的予防策を立てておく。そうしてようやく、結婚によってその個人を受け入れる。
(267ページ/1969年10月31日・朝の説法より)

わたしがこのたびOSHOの本を読んでみようと思ったきっかけは、 インドで知り合った国際恋愛詐欺師Rさんの語る「インドの結婚システムの話」がおもしろかったからなのですが、その人が 「先にリスペクトがあったほうが、そりゃ結婚は成功しやすい」という言いかたをしていて、失敗のニュアンスがよくわからないと思っていたのですが、これか!


いろんな話をされていて、妄信者になる人のヤバさを分解する内容も多いのですが、そこも含めて吸引力がある。80歳を過ぎた毒蝮三太夫がラジオの街角レポートでババア! とか ジジイ! と言っているのと似た感じ(この喩えで伝わるじゃろうか…)。

話の運びがうますぎてずっと警戒心が解けないままの読書でしたが、眠りについての説明部分は、すばらしい説法。寝苦しい季節になる前に読んでよかった。

死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録

死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録