うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ラーマーヤナ ― インド古典物語(上・下)河田清史 著


ラーマーヤナに登場するハヌマーン孫悟空のモデルといわれたりしていますが、なんのなんの。この物語のフォーマットそのものに西遊記があふれています。
「悪=悪」の一辺倒ではない物語の構成、悪者の葬式でこんなに泣かせる話があるものかという展開。たまりません。わたしは子どもの頃、水戸黄門で悪者がこらしめられている場面を見て手を叩いて喜んでいる年配の人たちの心理がおそろしく、こらしめられるような言葉を浴びせられるときには水戸黄門の悪者になったような気がしました。黄門さま自体は慈悲深いのだと思うのですが、そのコントラストのテンプレートを日常に採用しようとする身近な大人のやりかたを見るたびに、なんとなくおびえていました。
いっぽうで、わたしは幼い頃から西遊記を見ていたので(マチャアキの!)、世の中には慈悲というものがあることをうっすらと学んでいました。そのうっすらとした学びに支えられてきたように思います。
そんなうっすらとした学びがくっきりとある! それがラーマーヤナであることが、この子ども向けの本を読んでありありとわかりました。西遊記を見ていた頃から40年近くが過ぎた今、おばちゃんこれ読んで泣きましたからねーーー!


インドの英雄伝は、理不尽なこともそのままにして進みます。あとで回収せずに置き去りにされた伏線のように放置されるものもあり、悪が完全に滅せられたかのような状態にすることへのリスクまで包含されている。そんなふうにも思え、単純ではありません。悪の葬式にしっかりと章が割かれ、それが大きな見せ場となり、「強さとは」を説いていく。
権力闘争、戦争の物語でもありますが、そのなかに織り込まれる教訓はとてもインド的です。

 ダサラダ王は若いころのあやまちをつぐなって死んだのです。人間がひとたび行ったことはなんであっても、生涯その人にまといつくものです。
 よい行ないであっても、悪い行ないであっても、人が天国へいって魂がやすらかになるまでは、まといついてはなれません。人は乞食であろうが、王さまであろうが、自分がひとたびしてしまったことをかえることはできないのです。
(上巻「ダサラダ王の死」より)

いまはよい行いで讃えられている王も、過去のカルマを負うことにおいては平等。



戦士の義務も明確に示されます。

 ラーマはいったん口にしたことは、かならず実行せずにはおきません。さっそくバーリと一戦をまじえようと、スグリーバをせきたてました。行動ははやいほうがよく、計略もたてずに、ぐずぐずしているのは、いちばん悪いことだからです。
(上巻「猿の王スグリーバ」より)

「計略もたてずに、ぐずぐずしているのは、いちばん悪いこと」という教えのマイルド説法版がバガヴァッド・ギーターのようにも感じられてきます。
この本の最終章「凱旋」で、インドには「聖雄」ということばがあるという説明がされおり、武力と勇気のうえに人間としてのりっぱさが輝くと「聖雄」になると書かれています。


黒い顔の猿がいることやリスの模様が三本線である理由をエピソードの中に混ぜていたり、そのような細かな点にもおもしろみがあって、読んでいてわくわくします。
いま子育てをされているかたは、ひとりでまずはラーマーヤナを読んでみて、いま日本の道徳教育で採用されている物語の構成と見比べてみるとよいかもしれません。共通点がたくさんあることはもちろんなのですが、「ここで、こうなるの?」という点も読みどころです。王子は王位争いで理不尽なことがおきても、わりとあっさり「相手にも事情があるのでしょうし、そーゆーことなら、しょーがないんじゃないですかね」となり、そのあとシンプルな暮らしの中で瞑想をしたりします。この展開は、日本で言ったらたいそう大人向けなのですが、ラーマーヤナだと子ども向けの文章で読めてしまう。わくわくするんですよね…。

わたしはインドで哲学の講座を受けたときに「サンカルパは決断や思いのこと。ラーマーヤナで語られているよ」と教わったのですが、読んでみて "まさに" という思いの連続でした。ラーマの意思の連続で進む物語。そしてぐっと掴まれるのはやはり、西遊記のような慈悲の展開でもあります。何度読んでも泣いてしまう「ラーバナの葬送」の章は、まるごとノートに書き写して持っておくことにしました。