うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

世界を動かす聖者たち グローバル時代のカリスマ 井田克征 著


これはとてもよい社会的なヨガの入門書。ヨガにハマって多くの人がふわっと目に見えないものを信じられるようになると、社会が回らなくなるのでは…、なんて心配をしなくても大丈夫なのです。大丈夫なのよー。うふふ。
この本の「はじめに」に、このように書かれていました。

インドでは今日も多数の聖者たちが入り交じって、さまざまな発言や行動によって社会を牽引している。彼ら聖者たちが現代社会において果たす役割、それはつまりグローバルな社会とローカルな世界とを色々なやり方で結びつけることである。そうした彼ら聖者たちの活躍を知ることなしに、今のインドの本当の姿は見えてこない。本書は、現代南アジアにおける聖者たちのありようを描き出すことを通じて、そうした聖者を必要とするアジア社会の向かう先を照らし出そうとするものである。


この本ではパタンジャリ・ブランドを展開するババ・ラームデーヴについて第五章が割かれており、「人騒がせなヨーガ・マスター」というサブタイトルがつけられているのですが、その人気の理由のひとつとして "語り口" があげられているのが興味深かったです。

ラームデーヴは農村生まれで、特に高度な教育を受けているわけでもなく、どちらかといえば洗練されない語り口を特徴としている。テレビの中でヨーガを説く彼は、気どりのないあけすけな物言いで親しみやすい。そしてテンポよくユーモアを交えて聞き手の注意をそらさない。それはまさに伝統的な説法師の技術であり、村の無名の導師(グル)たちが、きつめの冗談と譬え話を交えながら信徒たちの心をつかむやり方を想起させる。
(第六章 ババ・ラームデーヴ/人気の秘密 より)

いままで日本人でババ・ラームデーヴのことを知らない人にすごくこの存在感が説明しにくくて、美輪様+寂聴様+マツコ様+実業家という感じ…と伝えていたのだけど、そんな人がジャパネット高田社長の語り口で喋る。と加えたくなる。ほんとうに、日本人の感覚だと不思議な存在。


この本ではほかにも何人かの聖者が各章のテーマになっていますが、ネパールのクマリ、インドのアンナー・ハザーレーのことは知りませんでした。いまのデリー首都圏首相(アルヴィンド・ケジュリワル)が、ハザーレーの片腕だった人であるということも初めて知りました。ほかには、ダライ・ラマサティヤ・サイ・ババ、そして最終章ではアンベードカルが題材にされています。


わたしは "あと10年もしたら、ヨガをするヤングの中にはサイババという名前を聞いたこともない人がたくさんいる時代になるのだろうな…" と、この本を読みながらそんなことを思いました。以前インド旅行記のなかで書いたふたりのサイババも、この本でより詳しくわかりやすく解説されています。その章の終盤では以下のように書かれていました。

 現在、シルディ・サイを祀る寺院の多くは「シルディ・サイの魂はもはや生まれ変わらない」として、信徒たちにシルディ・サイのみを信仰するようにと指導する。これはシルディ・サイの死から今に至るまで、数多くの自称「生まれ変わり」が排出していることに対応したという側面もある。そうした生まれ変わりたちの多くは、さほど注目されることなく消えていったのであるが、サティヤ・サイは希有な例であったと言えるだろう。シルディ・サイの熱心な信者たちの多くは、サティヤ・サイに対してあまり興味を示さないが、だからといって必ずしも彼を否定するとは限らない。
(第四章 サティヤ・サイ・ババ/二人のサイ・ババ信仰の未来 より)

こういう流れになってもサティヤ・サイババを否定する方向へ振り切っていかないところがインドらしさというか、それをインドらしさと感じてしまうところに自分の日本教徒らしさを感じてしまう。宗教リテラシーの高さというのはこういうときに表われるもので、「多様性」という言葉をやたらに言いたがる感じともまたちがう。



現在のダライ・ラマのスタンスについての解説もとてもわかりやすかったです。
以前アジア旅行中に、わたしはダライ・ラマに会ったといって多額の寄進を募ろうとする寺院の商売を見たことがあったのですが、僧侶による鼻高々の説明を受けながら "ダライ・ラマって、護国寺のイベントで来日されていたような…。リシケシのアシュラムにもおいでになっていたよなぁ…。いちど来日されるとそのあと対談本がたくさん出て、めっちゃ仕事する人だと思っているのだが…" という思いが浮かんでいて、いま僧侶から話を聞いている自分は、ダライ・ラマを活動家として見ているということに気づいたことがありました。聖者来たる!!! という視点の僧侶とわたしのような視点ではこんなに温度差があるのかと。やはり聖なるものには共同幻想のシナリオが欠かせない。その点においていまのダライ・ラマの存在はとても不思議な感じです。
わたしはこのシナリオの構成作家としてのダライ・ラマのバランス感覚にいつも驚くのですが、もうこのように公言されてたんですね…。

 かつてダライ・ラマは、自分の立場をある種の職務としてとらえているという趣旨の発言をしている。そしてさらに、チベット人たちがダライ・ラマという存在を必要としない日が来れば、いつでもその地位を退くつもりであるとも述べている。これは聖者としてはきわめて特異な発言である。聖者とは、自らの内に聖性を見出す人物であり、そうした聖性は多くの場合、絶対的なものとなるからである。しかしこの発言からは、彼が自分自身の最高の転生ラマとしての聖性すらも相対化していることがうかがえる。
(第三章 ダライ・ラマ一四世/ダライ・ラマ一四世の聖性 より)

ここを読みながら、日本の天皇は象徴ではあるけれど同じように相対化の感覚を鋭く持たざるをえない状況になっていて、社会の変化とともに求められるイメージの性質はあきらかにダライ・ラマ的な方向で聖性を増している。日本の天皇のほうが経緯も状況も複雑で大変…などとふと思いました。「肉体があるんですからわたしも疲れるんですよ普通に」と、そりゃそう言いたくもなるよな。


この本は社会と聖者という視点で書かれているので、さまざまな歴史が端的に説明されていてよいです。なかでもサティヤ・サイ・ババの章に差し込まれているタントリズムの概念の説明はすばらしく簡潔。

 ところでインドのヒンドゥー教の歴史では、八世紀頃からタントリズムと呼ばれる神秘主義的な思想が流行する。そこでは、この現象世界のすべては最高神であるシヴァ神とその妃(シャクティ)とが合一し、そこから「展開」(パリナーマ)することで生じたのだと考えられる。個人は瞑想や儀礼を実践することによってこの展開のプロセスを遡って、世界の本源たるシヴァ神への境地へと到達することができる。これがタントリズムの基本概念である。
(第四章 サティヤ・サイ・ババ/教団の発展 より)

簡潔! グナの展開を「ただの、そこにある自然」としていた流れに神話学的なものがくっついていった、そういうもの。神話のくっつきかたに流行があった。ふたりのサイババの件だって、いうなればその形のひとつというふうに読み取れるように解説されています。


インドのインドっぽい話になると急についていけない感じがしてしまう人や気後れしてしまう人は、こういう本から入っていくとよいんじゃないかな。むしろ妙に俗っぽいのに宗教観がめちゃくちゃあるところこそが魅力なので。
わたしが「インド人の頭の中、おもしろい!」と強烈に思ったのは、そのへんのお兄ちゃんのジョーク・雑談のレベルの高さに触れたことがきっかけだったのだけど、この本を読んだらその雰囲気もうかがい知ることができました。