うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分だけに向けられたものを強く欲しがる心

少し前のことですが、仕事で見かけた場面でのこと。「その要望をいま口に出すって、このかたお疲れだな…(心が)」と思うことがありました。「こういうのって、お願いできるんですか?」という問いかけ。
機械の操作(ツールの使いかた)をしながらその仕事のやりかたのアウトラインをつかんでいこうという場。その後、各自が自分の仕事の中で「問い」を立てていくことが前提なのだけど、指導を受けてすぐに「個別対応は可能か」「相談に乗ってくれるか」をたずねてる。確認しておくこと自体は賢いことだけど、その質問はもう少し後のほうがよいんではないかな…。そんなことを思いつつ、でも、先の心配をつかまえずにいられないその気持ちはよくわかる。


作業途中でわからなくなったところで保存して、目的と解決したい事項を添えてくれればお答えしますよ、と講師のかたは淡々と慣れた口調で返答されていました。


こういう場面で、わたしはたまに心がざわつきます。上記はものすごくライトなケースだったけど、「わたしのおなかがいたくなったら代わりにトイレへ行ってくれますか」くらいの依存度の発言に戸惑うことが、職場で過去に何度かあったのです。

仕事の場面ではそれなりに経験のある人がサポートに入ったり、クッション役の人に多くの対価が支払われるべき(あるいはクッションの頭数を増やしてフォロー範囲を拡大するなり…)と思うことがあるのだけど、寄りかかられた人がちょっとキれてしまっていることもあって、キれちゃう気持ちもわかるし、中間管理職の大変さはまさにこれを薄めたものの連続と蓄積じゃないかと思う。

片方に同情心を乞う気持ちが強くなりすぎている状態から生まれる不均衡。こういうことは、些細なレベルになれば日常にたくさんあります。これを「甘え」のひとことで片付けるには要素が多くて複雑。


わたしはオカルトやスピリチュアルな案件と距離を置いてはいるものの、こういう日常の獏とした揺れを吸収してくれる場として、存在価値を認めざるを得ないと感じているところがあります。子どもなら親や大人が引き取ってくれるものも、大人のなかで発生したものは、どこへいけばいいのと思うから。


そのうえで、そうなるまえに分散しておきたい。わたしはその分散の方向のひとつとして、身体を使う運動をするのが賢い選択と思っています。ええ、今日はこんな流れからのヨガ推しです。中心軸を探す作業を身体からアプローチして、内面に応用していく。

ヨガはアーサナが上達したり見た目がよくなったときに、それを外面の武装に使ってしまうこともあるから、やらない人には "ケッ" と思われたりするのもわかってる。そんなのとっくの昔にわかったうえで、言っております。



食べる前にトイレの心配をするよりも、トイレへ行く時間も惜しいくらい楽しい瞬間があることを感じましょう。人生初ヨガのかたも、身体を動かすのが久しぶりのかたもどうぞ。

▼東京のヨガクラス