うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

(再読)ババジと18人のシッダ ― クリヤー・ヨーガの伝統と自己覚醒への道 マーシャル・ゴーヴィンダン著/ネオデルフィ(翻訳)

13年ぶりに再読しました。

13年前の自分は聖者伝説に興味津々すぎて痛々しかったのではなかろうか、そんな気持ちでおそるおそる過去のブログを読んでみたのですが、意外とあっけらかんとしていました。

あかんところもなにげにリスクヘッジをしながら書いていて、わたしったら、意外と冷静だったみたい。(ほっ)

 

「あかんところ」の話を先に書いてしまいましょう。
この日本版の『ババジと18人のシッダ』には、北米で出版された英語版にはない第3部・第4部が追加されており、第4部の「著者回顧録 私がババジ の弟子になるまで」に強烈なエピソードが書かれています。(なので、それを含んでいない英語版のAamazonレビューを読むと、かなり能天気に見えます)

 

そのエピソードとは、要約するとこのようなことです。

著者は教義にもある理想・生活の基本に沿おうとし、ヨーガ・センターの中でパートナー(シェールさん)と出会い、それを師(ヨーギー・ラマイア)から祝福されます。しかしその間もその後も仕事と修練の両立生活は過酷で、師によってパートナーとの関係を終わらせるように指示され、彼女と別れることになります。

その苦しい別離の数年後に、シェールさんは師の子供を産んでアシュラムを去っていきます。これが初期の試練のエピソードのひとつで、その後も、師との関係性の面ではプライドを削られる苦難を繰り返し経験していきます。


━━ というのが、まあそこそこインパクトのあるエピソードではあるのですが、著者がクリヤー・ヨーガに出会うまでの人生も激しく、アメリカらしい感じです。いまはNetflixで『ワイルド・ワイルド・カントリー』のようなドキュメンタリーを観られるので、そういう時代を知った後でこの本を読めば、そんなにショックを受けずに読めるかと思います。

 

 

さて。
今回のわたしの再読は、第3部の『クリヤー・ハタ・ヨーガ 18ポーズの実践方法』のヒンディ版を読んでいるためで、日本語訳の確認のための再読でした。
ヒンディ版を読んでみたら、冒頭に書かれている内容がすごくよくて、日本語版にもに載っていたっけ? と確認したのですが、その内容は日本語版の第2部11章・12章にまたがって書かれていました。

そのほかにも、数年前に読んだゴーラクナートの『シッダ・シッダーンタ・パッダーティ』のいくつかの節の日本語に触れることができたり、ヨーガ・ニドラーの以下のような説明を実感を込めて読み直すことで、再発見がありました。

 肉体が眠る一方で意識が完全に目覚めている「ヨーガの休息」は、一般的な睡眠とは異なる。これによって得られる休息の質は瞑想によって得られる状態にも勝るものである。潜在意識も休息を必要とするが、潜在意識を含む意識の全体に休息を与えることができるのは、瞑想とこのヨーガ・ニドラーである。
(236ページ 睡眠を「ヨーガの休息」に変える より)

意識が平坦になって整った結果として元気になる感じは、表層的なエネルギー・チャージとは違うもの。爆笑した後にふと襲ってくるあの寂しさを伴わない、穏やかにふっくらと元気を取り戻す、そういう感じ。
それを言葉で説明すると、こういうことになるのだろうか。と思いながら読みました。

 

そのほか、以前はよくわからずに読んでいた、シッダたちが開発した化学・医学と肉体へのアプローチは、このたび再読することでなるほどと思う点が多くありました。

 シッダの学問体系において、化学は医学と錬金術に付随する科学として発達した。化学は肉体と精神の諸々の苦痛を癒す薬の調合や、卑金属を金に変えるために役立つことが知られていた。植物や鉱物に関する知識は非常に高く評価されていた。水銀、鉱物、金属を焼いて粉末状にする工程や、「ムップ」と呼ばれる特別な塩(金属を変容させる驚くべき特性を持ち、人体組織全体の若返りを可能にする高い効能を持つ、いわば生命エネルギーに満ちた水銀の丸薬)の調合は、他国やインドの他の医学体系には見られないものである。こうした特製の塩や薬草の処方を使って、シッダたちは「カーヤ・カルパ」と呼ばれる独特な若返りの科学を開発した。(Velan,1963,p.122)
(72ページ 古代の化学 より)

ゴーラク・ナートの残した言葉(ゴーラク・バーニー)を読むと、錫や鉛を使って〜のような記述があったり薬草の名称も具体的に登場し、確かにそういうことが書いてあります(参考)。

 


第6章のシッダ・ティルムラル(Siddha Thirumoolar)の思想の説明は、ハタ・ヨーガ以外のテキストを並行して読んでいると、とても興味深い内容です。

 古代の賢者や見識者の多くは、魂の重要性を強調するあまりに、図らずも肉体の価値を軽視するようになった。後にこれは肉体を敵視する風潮につながった。何世紀もの間、人体は攻撃の対象となり、名声ある学者や神学者たちは肉体を蔑む言葉を次々に生み出した。これらはすべて魂を称えるためになされたことであった。しかし皮肉なことに、肉体の支持と協力なしには、決して魂は救われ得ない。ティルムラルは肉体を蔑むこうした風潮に初めて挑み、「肉体なき魂や命とはどのようなものか」、「肉体の役割とは何か」、「肉体には価値があるのか」といった質問への答えを示した。こうしてティルムラルの教えは、新思想の潮流となった。(Thulasiram, 1980, p460)
(122ページ 『ティルマンディラム』の教えの真髄 より)

わたしが今年の春からちまちま読んでいる『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の中で、いくつか身体よりも精神(意識)を強調する話がありました。なので上記のティルムラルの章は、なるほどこのように思想の潮流は押し寄せ合うのかと思いながら読みました。

自分が100年生きたとしても、ヨーガの歴史はその何十倍にも及ぶ、とんでもなく長いものです。

 


この本は最後に引用元の文献リストがしっかり載っていて、前半は論文のまとめのような内容ですが、それをサンドイッチするように「特別なグルの特別な教えがビジョンを通して交信され、伝授されてきた」という情報が掲載されているので、この調子に慣れていない人が読むと「テレパシーかーい!」とツッコミたくなるだろうと思います。


第8章、第10章以外の第1部と第2部、第3部はハタ・ヨーガの歴史と内容を説明する本としてすばらしい内容と思いますが、第8章の老子と第10章のシュリー・オーロビンドの組み込みかたは、さすがにそれは対象を狙って拡張しすぎでは? という気持ちがどうしても起こります。

その辺りが、バランスとして不思議な印象を受ける本です。ヨガの本にはこういうのは珍しくないですが、こういうのが入ると、こじつけながら権威性を持っている感じに見えてしまう。いいことが書いてあるんだけどな。