うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「ていねいな暮らし」も「自由な旅人」も「気のおけない友だち」も、ケッと思う人はいるわけで

友人とインドで移動をしながら雑談をしたときのこと。
友人が「ていねいな暮らし」を見せられるのが苦手だという話をして、あーあれねぇ…、なんてわたしもうなずきつつ、一方でわたしたちが旅行中に発信したSNSもそれが自由な旅人アピールに見える人にはケッと思うものであろうし、さらには気のおけない友だちがいるアピールに見えたりもするのじゃないかという話をした。こんどは友人がうなずいた。

 


 アピールとして受け取る

 


この瞬間のマインドに、わたしは以前から興味を持っています。なにかにケチをつけることを止められない心を知っているから。自分が子どもの頃「どうしてあんたはそうなのっ!」「っっっとに憎たらしい子だね!」と、大人たちがそれを言語化できずに苦しみ叫ぶほど、わたしはそれを常習的に自分のものにしていたから。

 


大人になった今は、自分が楽しんでいるものに対してマイナス面を示す人を見ると「ごめんなさい」という気持ちに似た感情が起こることがあります。マイナス面を拾って示さずにいられない人のことを、心の中で切り捨てる線引きをした過去への自覚が起こって「わたし、その気持ちを見捨てようとしてた」という再認識と罪悪感が浮き上がる。

 


他人にされて嫌なことはしないようにしましょうの原理を追求すると、世の中から発信は減る方向にいくのではないか。わたしはそちら側の法則を心根の部分で採用しています。だからここでブログを毎日発信していても、扱う題材はやろうと思えば同じことができるものをなるべく選び、手順を添えて追体験しやすいように心がけます。

 

詐欺に遭うとか道を間違えるようなアクシデントは真似することがむずかしいけれど、それを読んだ人が自分で感じたいときにその機会に近づけるように。本のことをたくさん書くようになったのは、読書は体験しやすいからです。
マイナス面を探してケチをつけるに至る、その瞬間の人間の不安や孤独をみくびってはいけない。わたしはそう考えます。だから誰かに親切にしてもらったことへの「公開ありがとう」も、その文脈には慎重になります。自慢にしか見えない心境の人もいるだろうと想像します。

 


スねるという感情は、もしかしたら実を結んだかもしれない可能性を潰してしまう破壊力を持った、自分の栄えある未来を自分で絶つ行為。わたしはこれまで何度も自分の可能性を自分で殺してきました。だからその発生源にならないよう、他人の「スね」を発動させないようにしようという心がけがいつも少しあります。

大人になってみると、漠然とスねている人にどう対応すべきかというのは、ありふれた日常の課題です。大人だって、こんなにスねてんじゃん!と。それがありふれているからこそ手に余り、儀礼的なコミュニケーションで多くを済ませる。

だって漠然とスねている人に歩み寄るにしても、、、どうやって? わかりやすく歩み寄るのは残酷に感じます。他人にケチをつけたい自分につける薬を他人からもらう瞬間のことを想像すると、恥ずかしくて虚しくて、消えてしまいたくなる。
わたしは、世のスピリチュアル・マーケットを支えているのはこの原理じゃないかと思っています。三者からポンと「これを飲んでみなよ!」と薬を与えられるぶんには虚しくならないから。

 


そんなこんなで一周どころか何周もして(虎がバターになりそう!)、わたしは薬よりも予防のほうが根本的にやさしいのではないかと、いまはそう考えています。すべてにおいてほんのちょっとダサいくらいがよかろうと思っています。自分の行動と他人の行動を見てそう考えるようになりました。
── ここまでケッと思わずに、あるいは思ったとしてもぐっと呑みこみながら読んでくださったあなたは、わたしにとって愛しい存在です。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。