うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガ教室でハートブレイク。でも、オープンマインドネス

日本でもインドでも、ヨガ学校の先生の経歴やプライベートについて、長期間そこにいることでわたしが質問窓口のようになることがたまにありました。
「あの先生は偉い先生なんですよね?」「先生の先生は?」「先生はご結婚されてるの?」「お子さんは?」「あそこにいる、あのきれいなかたはお弟子さん? 恋人?」「先生は財産があるからこんな生活ができているのよね?」「先生は悟っていらっしゃるの?」
 ──「わからないです。直接聞いてみたらどうですか?」
 ──「えーっ、ムリムリ!」


こういうとき、わたしのハートはブレイク。「傷心」と書いてハートブレイクと読ませる歌のタイトルで知った言葉、ハートブレイク。チェッカーズの曲よ。ヤングは知らないでしょ、チェッカーズ。それにしてもこういうときになんかチクッとするのは、なんだろう。尊敬する人が消費される姿を見るのはつらい。かといって信長に対する秀吉的なマインドがあるかというとそうでもない。得体の知れないハート・ブレイク。

「この人になら聞いてもいいだろ」と思われたことで傷ついているのもあるけれど、尊敬する人が今まさに消費されているエグみに耐えられない。そういう弱さがある。これは昔テレビで見た「野生の王国」で大きな動物の死骸に群がる生き物たちの様子を見るのがきつかったのと似ている。仏涅槃図みたいに弟子が集まっているイメージとのギャップがすごすぎる。(ヤングの知らんネタ連発でごめんよ)


わたしの粘土のようなハートのブレイクはヒビが入った程度だから、パテ埋めはすぐ完了する。にしてもインターネットの関連検索ワードのような脳内をそのまま他人に見せてテヘペロっとする人の表情というのは印象に残るもので、そこで朗らかに雑談できればオープンな人だとか細かいことを気にしない大らかな人だと評価されるのだろうけど、すごく難易度が高い。大御所司会者からのセクハラ発言に軽妙なトンチで切り返す若い女性に「さすが」という評価が集まっているのを見て全方位的にしんどいと感じる、そんなわたしには難易度が高い。

 


近頃このムードについて声は小さくてもいろいろな角度から意見が述べられるようになって、世の中が過ごしやすくなりそうな気配を感じています。今日書いたようなエグみを「昭和の価値観」と表現されているのを目にしました。昭和って最近よー。夏目漱石の小説の世界でも詮索話の場面では「うわー。しんどーい」と感じる。あれは明治時代。夏目漱石の小説の主人公にひとり憤死する女性が登場する作品があるのですが、よくああいう小説を同時代に世に出したよなぁ…。ん? 話が大幅にズレた。ズレてるね。

 


ズレたついでに書きます。
わたしはインドで先生からもらったテキストの中から毎年手帳に書き換えて携帯している「Tearchers Tools」という教えをよく読み返します。そこには「open-mindedness」という項目があって、「ひとつのシステムがすべてのこたえを握っているわけではない。他の先生を見たりして、常に学び続けなさい」とあります。元は英語なので訳はわたしの日本語です。オープン・マインドっていろいろな意味で便利に使われるけれど「ひとつのシステムがすべてのこたえを握っているわけではない」という考え方を、わたしはとても気に入っています。


「トイレの場所の案内をお願いします」「この机を全部あっちにざーっと移動お願いします」「そこにある電気のスイッチ消してもらえますか」。わたしの開催するヨガクラスは地方でも東京でもその場にいる人にあれこれお願いしています。そのほかのことは業務を委託できるスタジオを利用することでカバーしています。そうしているのには、今回書いたことも含めてさまざまな理由があります。
10世紀~16世紀に残されたといわれているハタ・ヨーガの教典を読むと、わたしが今日書いたような意味でいう環境についての条件がたくさん書かれていて、練習する部屋や食べ物のことだけでなく、対人関係(付き合うべきではない人)についても書かれています。昔からある定番の課題のようです。

 

 

ジュリアに傷心

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