二つとも短いテキストで、「自分はこう思うぞ。以上!」という文章。
坂口安吾の論を読んでいると、とっくにこの時代に指摘されていたことが今も変わらなかったり、そこは修正されても別の形でその価値観が再生していることがわかります。
敬語論
指摘がまともすぎる。
先ず、新聞をひらいてみたまえ。ある人を氏とよび、さんとよび、君とよび、犯罪者はよびすてゞはないか。
個人が勝手に用いているザアマスだの敬語などは、銘々勝手で、罪のないものであるが、こうして一つの新聞的表現を法則化して押しつけてくる新聞語などは、もっと厳しく批判する必要がある。
オエラ方も犯罪者も戦犯も、みんな一様に氏とよんだら、どうだ。
今の時代も、ニュースを見ながら文字列や編集方法による印象操作を受け手側がフィルタできないと、認識が現実からどんどんズレていく。トランプ大統領が誕生したときにそう思いました。
この「敬語論」は冒頭もいいんですよ。
インドの昔に学者が集って相談した。どうも俗人どもと同じ言葉を使ったんじゃ学問の尊厳にかゝわる。学者は学者だけの特別な言葉を使わなければならぬ。そこでそのころのインドの俗語(パーリ語という)を用いないことにして、学者だけの特別の言葉をつくった。これをサンスクリット(梵語)と称するのである。
既にヒンディーがばりばり話されていた時代に書かれたサンスクリットのハタ・ヨーガ経典をありがたがって読むことにモヤモヤを感じていたわたしとしては、出だしからハートを掴まれました。
パンパンガール
能力を退化させることで適応していく女性の問題を語っています。
然しパンパン諸嬢は元は女学校の優等生だが、自然人への変化と同時に知性の方も原始人的退化をとげて、自然人たることに知性の裏附けを与へ、知性人たる自然人に生育してゐる「愛すべき人」は一人もゐないやうである。彼女らが知性人としての自然人となるとき、日本は真に文化国となるのであらう。
知性と自然の両立って、人間の魅力のいちばん大事なところ。だからこそ、知性を隠さなくていい場所も、自然を隠さなくていい場所も、つくるのがむずかしい。
坂口安吾って、当時同世代の人たちの価値観とどうやって折り合ってたんだろ。
100歳まで生きてほしかった。