うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

カルマヨーガのやり方は検索しても出てこない

ネットで検索すれば答があるだろうと考える人が多い時代。データを見ていると「おっとそれネットで探す?」というワードを見つけることがあります。「カルマヨーガのやり方」というのも、そのひとつ。こういうのは検索してもバシッと決めつけてくれるようなフレーズが出てきません。なぜか。


◯◯◯ヨーガという名前が付くものにもいろんな分類がありますが、ひとつ大きな分け方として、ためしに以下のように理解しようとしてみてください。日本語の「戦略」と「戦術」の違いのような、わかるようでわからんような違い。

  • A戦略:たどりつくために選ぶ道
  • B戦術:方法や装備

 

ちょっと無理やりだけど、あてはめると

  • A:カルマ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ジニャーナ(ギャーナ)・ヨーガなど
  • B:ハタ・ヨーガ、クリヤ・ヨーガ、ナーダ・ヨーガなど

で、Bのハタ・ヨーガはどんどん広がっていきます。呼称なので、どんどんどんどん増えます。時代が変われば言葉も変わる。このように。

例)

  • 人名=メソッド名のもの:シヴァナンダ、アイアンガー、ビクラムなど
  • 行為から命名:ヴィンヤサ・ヨーガ 、ヨーガ・ニードラーなど
  • エネルギーの概念・教典に登場するワード:ハタ、ジーヴァンムクタ、ナーダなど
  • 意識の状態・概念から命名:マインドフルネス、ZENなど
  • 行為者の属性:マタニティ、キッズ、シニアなど
  • 環境:ホット、オフィス など


わたし自身も、プライベートではOL仲間から「うちこさんがやっているのは、ハタヨガ?」と聞かれて「う、うん。まあ」と答えます。上記のBの中でハタヨガじゃないものってどれだっけ…というくらい、巷で開催されているヨガクラスは全部ハタヨガと言えばハタヨガなのですが、それはあくまでBの範囲での話。
このAとBと、Bの粒度が全部ごちゃまぜになって語られていれば、そら「カルマヨーガのやり方」も検索するでしょう。

 

で、問題はここからなのですが。
Aは「道理」に近い部分もあるので、マルチやカルト方面とも好相性です。カルマは行為、ラージャは王、バクティは信愛、ジニャーニャは知恵。行為に専心することをカルマ・ヨーガといいますが、もしわたしが社長や校長だとして単価100万円の壺を3年で1000個売り捌きたいならAに属するような言葉を選びたくなります。
あきらかにブラックな環境で行為に専心している人も、本人の視点を主語にしたら「組織に対してバクティ・ヨーガをするカルマ・ヨーギー」と言える。なのでAの言葉を日本語感覚で使う場合は、主語と発信者と文脈のすべてが分解される必要があります。

 

Aの種類について、わたしは自分のヨガクラスで「富士山に登るのに山梨からでも静岡からでも行けるのと同じ感じ」と話すのですが、雑巾がけでも(行為に徹する)、お祈りでも(信愛の表明)、心身を鍛錬して強くなろうとするでも(王を目指す)、無になる瞬間を選び取るにもいろいろな道があります。
なので「やり方」は検索しても出てきません。「カルマヨーガのやり方」で検索して「毎日壺を撫でるだけ。**社製の」「毎日10回スクワットをやるだけ。××システムが開発した特性レギンスをはいて」「毎朝ジュースを飲むだけ。☆☆農園で育てられた野菜の」というような断定型の文章がGoogleの検索結果にたくさん並んだらそれはそれでめちゃくちゃ楽しそうではありますが、そういうことは起こらない。

 

「戦略と戦術の違いだと? ええい、ややこしいことを言いやがって。こちとらいちばん偉い、いい先生を知りたいんじゃ!」という態度は、壺・レギンス・ジュースへの道に近い。そしてそれすらも、バクティ・ヨーガといえばバクティ・ヨーガ。カルマ・ヨーガといえばカルマ・ヨーガということになります。 ヨーガをしたいのではなくて、その前の文字に入る事にできるだけ早く着手したい。頭の中の自我がうるさくて、居ても立ってもいられない、けっこうしんどい状況だろうと思います。

 

「カルマ・ヨーガのやり方」を検索しても出てこないのは、それが「道理」「生き方」の意味を包含するから。なので、これを検索しちゃう時点で5%くらいカモになりかけているかもしれない。(5%ならぜんぜん大丈夫だけど)

バチッと出てくる、言い切ってくれる、断言してくれる、斬ってくれる、悪を定義して成敗してくれる。そういうものを探したくなる気持ちはわからなくないけれど、どこか頭の片隅で「調べても結果が出てこないものには、それなりの奥行きがある。密林だ」という考えでいられていれば大丈夫。


カルマ・ヨーガは身近な例でいうと、 毎朝お弁当を用意している人が "はぁ…" とため息をつきつつも、えいやっとやりきる。昨日とまったく同じ内容でいいじゃないか! とちゃっちゃと具を詰める。漠然とハードルを上げない。詰めて持っていくことが行為。そういう瞬間に発動する意識がいちばんカルマ・ヨーガの意味としては近いんじゃないかなと思っています。

("わたし" は平日の朝、昼の "わたし" のために毎回ほぼ同じ内容・レイアウトのお弁当を詰めています。そういうルーティーンにしています。"行為すること" に専心しています)