うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

タントラ・ヨーガ瞑想法 スワミ・ジョーティルマヤナンダ S. 著 / 川村悦郎 翻訳


ちょっと解説の表現が抽象的だなと思うところもありつつ、序章からその視点の鋭さに引き込まれます。
人間における根源的な四つの機能が感覚・感情・思考・意思のはたらきであるとして、それらと4つのヨーガの道程(カルマ・ヨーガ/バクティ・ヨーガ/ジニャーナ・ヨーガ/ハタ・ヨーガ)と深く結びついているという説は、妙に納得してしまう。

ヨーガの瞑想や集中トレーニングの方法を紹介している本ですが、終盤にある以下の歴史の解説は、パタンジャリの苦悩を想像して察するための説明として、とてもわかりやすいものでした。

タントラという概念と、ヨーガという概念は、非アーリア人という同一の担い手によって包摂される、一種の類概念と種概念の関係にあるといってもよいのである。
(中略)
本来は非アーリア人の文化的所産であったヨーガを、とにもかくにも学派として確立しようとするのであるから(すなわち、アーリア人の論理的、思弁的な色調において集大成しようとするのであるから)、それに相応しく、ヨーガの表面を論理的、学問的な形に整え、繕う必要があったということなのである。つまり、そのために、パタンジャリは意図的な無理をせざるを得なかったということなのである。
(243ページ タントラ・ヨーガの意味と歴史 より)

アーリア人という同一の担い手ってというところを主軸にした説明はあまり見ませんが、聖典を読もうと書いてありつつもあのような内容であるハタ・ヨーガ・プラディー・ピカーとヨーガ・スートラをあわせ読むと、この部分が沁みます。



トラータカの説明にあった以下は、子どもの頃に自分はアジナ・チャクラを弄んでいたのか…と思ってハッとする記述。

 まず目を瞑ると、さまざまな色彩や、さまざまな星型などが現われてくるだろう。そうしたら、できるだけ客観的に、それらの色彩や星型を見つめるように努力する。それらは、アージニャー・チャクラに継続的なプレッシャーが加えられたために引き起こされた現象に外ならない。
(80ページ 第3章 トラータカ より)

わたしは小学生の頃によくゲンコツで両目を押して映像を作るのを楽しんでいて、意志で図の動きをコントロールできてしまう感じが「まるで夢を見ていることに気づいているときのようだ」と思っていたのですが、この本にはわりとこういう話が多く出てきます。



ちょこちょこと、こんな流派もあるよ、という解説が入るのもおもしろい。

 ナーダ・ヨーガには、さまざまに特殊化してきた幾種もの団体や宗派がある。そのなかでも特に有名なのが、ラダ・スワミの一派と、蛇使い達であろう。もちろんインド音楽の古典的な形式のものは、ナーダの法則に則っていることは言うまでもない。有名なサーマ・ヴェーダも、本来は、ナーダ・ヨーガの科学的な厳密性と調和律とをもって、正しく詠唱されるべきものであった。
(172ページ 第8章 ナーダ・ヨーガ より)



 インドには、カナピシャーチ(kana-pisaci 耳のなかの精霊)と呼ばれる特殊な一派がある。彼らはよく、さまざまな人達にアドバイスや相談をもちかけられる。すると彼らは、その質問に対する答が聞こえてくるまで、自分の耳のそばで鈴を鳴らしつづける。彼らは、長年この方法を行っているうちに聾者になってしまうので、おおむね彼らは耳がよく聞こえない。
(182ページ 第8章 ナーダ・ヨーガ より)

このような逸話がちょこちょこと入りつつ、さまざまな瞑想の方法が手順書のように載っています。
ヨーガ・ニドラーの壮大なスクリプトも収録されていますが、このロング・バージョンはわたしも帰ってこれる自信ないわー。という内容。
アマゾンのデータは1962年となっていますが、わたしの手元にある初版は1982年です。なんでだろ。


タントラ・ヨーガ瞑想法
スワミ ジョーティルマヤナンダ S.
めるくまーる