第八講以降は心理学的な側面からいくつかトピックを抜き出して語られていて、第九項では智や煩悩に関するワードを掘り下げる内容になっています。神との関係の間にあるのが「愛」か「智」かといったような説明で、比較にキリスト教がよく引き合いに出されています。原理が愛か知かという説明のしかたはとてもわかりやすい。
今日もこの講から一部を紹介します。
<390ページより>
そういう点で仏教とキリスト教とは非常に違うわけです。それでキリスト教はどっちかというと愛を中心にしますから、そういう意味において智じゃなしに情のほうが根本的なものになるわけです。神の智じゃなしに神の愛というものが根本になるし、またその神に還っていく根本の力は愛にあるわけです。ところが仏教はそうじゃなしに智があるわけです。インドでも二つありましてね。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』に書いてあるヨーガは、これはラージャ・ヨーガと言いますね。それからジュニャーナ・ヨーガ、こういうものは主智主義なんですね。ところがバクティ・ヨーガというヨーガがあるわけですね、これは至情主義なんです。神様に対する愛というものが中心になるわけです。そして神を愛する、自分というものを全く打ち捨てて神を愛するということによって救われる、そういう考え方をするヨーガもあるわけです。だからヨーガの中には、主智主義のヨーガと至情主義のヨーガと二つの流れがあって、これは相反するようだけれども、ときには一つになっていることがあるんですね。
「至情」の部分のダジャレを楽しそうに話している様子を想像すると楽しい。講師の資格を得てヨガのクラスを自分ではじめる人たちを見ていると、情のほうに重きを置く人が多くいて、それは小さなスケールではじめようとすると日本ではそういうマーケティング手法に陥るしかないのかと思っていた。わたしは日本人が「愛」なんて言ってると照れると思ってしまうのだけど、もともとそういうものであってほしいという土台があるひとには、「愛」でもしっくりいくのだろう。
以下は、瞑想の階梯の違いを説明する部分。
<408ページ>
キリスト教のような宗教はそうじゃなしに、神様に全部をはじめから捧げて行ってしまう。そして同じようなサイレント・メディテーションの状態に入ったときに、逆に神様の愛というようなものが自分の心の中にパーッとはいってくるわけです。こういう方法と、これはどっちも同じことなんです、結局は…。ヨーガの方は自分の頭を最初は働かせて、そして自分の力で自分の心をなくしていくわけです。それからキリスト教とか浄土教のようなやり方でいきますと、自分の中の全部を神様に捧げていくという、そういうやり方で自分をなくしてしまう、空にしてしまう。そして空になったところで、さぁーっと神なり仏なりの慈悲あるいは智慧、そういうものが現われてくると、こういうような経験をするわけですね。
「自分の頭を最初は働かせて」というのをすっ飛ばしたい人がとても多いのは、キリスト教の影響も大きいのかな。
以下は「vipaka」の話。ちょっとおもしろいけど、ややこしいので誤読しないようにせねば。
<411ページ>
煩悩やヴァーサナ(vasana)、薫習と違うところがあるんです業遺存は。たいへん違うところがある。どこが違うかといいますと、この業薫習とか煩悩というのは我々が無始以来、こういいますね始めなし、無始以来、もう何千年とも何万年とも分らん前から、なんべんもなんべんも、何百年も何千べんも生まれ変わってきた間に蓄積した、財産と言いますか、ヴァーサナとかクレーシャ(klesa)の蓄積というものが、大変なものなんです。無尽蔵なものなんですね。
ところが業遺存だけはそうじゃないというんです。そこが違うんです。これは、そんなことしたら業遺存も無尽蔵にあって、いつまで経っても過去にあった良いこと悪いこと結果の、その報いが尽きんじゃないかと、こう思うがそうじゃないんですね。この場合だけは違うと、こう言うんです。どう違うかと言いますと、業遺存というのは一生だけで消えてしまうんです。ですからこのヴィパーカ(vipaka)というやつは、次の生で一切消えてしまうわけです。だから前の生で貯めた業遺存は全部、少し残りますけど大部分、ほとんど九分九里までは次の生で消えてしまうんです。
ヨーガ・スートラの1章24節の訳にあてられている日本語が、佐保田先生バージョンもサッチダーナンダさんバージョンも karma-asaya のほうに日本語の「業遺存」を用いているので要注意です。ここで佐保田先生が話している vipakaは「業報」のほうです。
「業報」については、日本人も「罪滅ぼし」の感覚がありますね。罪滅ぼしの感覚でヨガをするのはすごくおすすめなので、ヨガを始めることによってほかの価値観を否定するようになるようなら(ヘルシー・ハラスメントと言っております)、ヨガはしないほうがいいと話すことがあります。
この説明を読んだら、インド哲学の授業で西洋人の学友達が妙にイーシュヴァラの部分に食いつくなぁと思った背景が少し分ったような気がします。「あ、そこ、やる気スイッチ入るとこなのね」と。
(この本は京都にある日本ヨーガ禅道院で購入できます)
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