うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

百年の散歩 多和田葉子 著


文字の塊を街のブロックのように見ると、ブロックひとつひとつの中に、それぞれの思いと妄想と日常がある。
わたしもよく脳内で物語を作っているけれど、頭の中はみんな、きっとこのくらい自由にいろいろ連想さているのだろう。
この本を読んでいると、きっとドイツ語のなかにもこれは日本語にないなぁとか、その逆もあって、その中間から脱線していくかのような感じがおもしろい。
街をぶらぶらしていると、目や耳に入ったものからこういう脳内動作が起こることってあるなぁ…ということがいくつも描かれている。

 スープの表面をスプーンの腹で割ろうとした瞬間、遠くから突風のように「しぇるしぇ」というフランス語が飛んできた。視線を泳がせて、声の源を捜すと、前方のかなり遠いところに女性が三人すわって話している。そんな遠い席から、ドイツ語の網を通り抜けて、ここまでまっすぐ飛んできた単語。ものすごい勢いで飛んで来て、わたしの脳の表面にぶつかった瞬間、ひらがなに変身した。しぇるしぇ。ひらがなになってしまったのは恐らく、ドイツ語と区別しておかなければいけないという脳の選別機能のスイッチが自動的に入ったせいだろう。でも区別しておくことのメリットって一体何だろう。わたしは、自分自身の脳味噌という会社の社長をやっているつもりでいたのに、いつの間にか窓際族になっている。
(カント通り より)



 いつもなら入らない感じの店に足が勝手に入ってしまう。すえた化繊のにおいが鼻を突く。入ってから自分が冷房に誘われて入ったことに気がつく。冷房のきつい店なので、脳味噌はすぐに「入らない」と判断しただろうけれど、肌の方が判断が早くて、脚に賄賂を贈って店に入ってしまったのだ。そのようにわたしの内部で行われている闇政治をやめさせたい。
カール・マルクス通り より)

「しぇるしぇ」のくだりでは、面倒くさいので自動的に区別するという脊椎反射を、そのままイコールで "面倒くさいから差別する" にはしないよ、人間だから。と思いたいのにいつのまにか社長ではなく窓際族になりそうな、そういう自分のあやうさやふらつきを思う。冷房のくだりでは、脚は足よりも皮膚の面積が大きくて、知覚器官を知覚がどんどん支配しにいくのを脳が止められないあのスピード感! こういうことって、あるなぁと思う。


身体描写の点では、ここもすごく印象深かった。

 さらにページをめくると、ブランドルのヌード写真が二枚載っていた。もりもり増えた利子のような筋肉ではなく、一寸の無駄もない身体の緊張感が傷つきやすさとぎりぎりのバランスをとっている。ボクシングは痛い職業なのだと思い当たる。常に無数の痛さを引き受けている。うつむき加減のブランドルの顔には、闘志でも誇りでもなく憂いが宿っていた。駅のキオスクで見かけるボディービルの雑誌の表紙に出ているモデルとは似ても似つかない。もう一枚はブランドルの全身を後ろから撮っている。臀部が女性的な曲線を描いて実際よりも大きく見えるように撮られていて、人間はお尻に肉がついているというものだということを忘れて生きているから、すべての人が不在に見えてくるのかも知れないと思った。
(レネー・シンテニス広場 より)

自分の存在の大きさをいちばんどっしりと感じられるのって、臀部だったりする。頭蓋骨よりずいぶん大きい。でも普段は頭でっかちになって、なんならお尻の倍くらいの比重になっている。倒立をしようとしたときに急に臀部の大きさをありありと知るなんて遅すぎる。知性がなかったことが残酷なくらい明るみに曝されてしまう。人間を見ているとそんなふうに見えることがあるのだけど、その感じを思い出した。
 

戦争についての思索には、胸に迫ってくる言葉がくつもある。職業についての思索には、胃に迫ってくるものがある。特に花屋のくだりと広告ポスター(芸術家と演出家)のくだり。
この小説は、長い長い助走からのラストがいい。そうそう、このくらい助走を経ないと、さまざまな縛りの中で飛べる気がしてくるかなんて、わからないものだ。そして助走だけでもそれなりに体力を使うから、普段は途中でどっちでもよくなってしまう。この小説は、そんなトンネルから抜けていくかのような終盤がいい。
でもラストだけ読んでも、この「いい」の感じにはたどりつけない。無駄かもしれないと思った瞬間に、思索から知性が抜け落ちてしまう。そういう脳内おしゃべりの先にある最後のこの感じは、すごくいいなぁ。この主人公には自分自身とペチャクチャ喋れる友だちが自分自身にも二人いることが、チラッとでてくる。こういう孤独は、いやじゃない。


この本はドイツを旅してきた人が貸してくれたのだけど


ガイドブックみたいに、行った場所に印が付いていた。
すてきな旅をしたきたことはこの本を読まなくてもその人の顔つきでわかったけれど、ベルリンという街にすごく興味がわいた。


▼紙の本

百年の散歩
百年の散歩
posted with amazlet at 17.11.13
多和田 葉子
新潮社


Kindle

百年の散歩
百年の散歩
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新潮社 (2017-09-01)