うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

長編小説を読めなかった頃のこと

先日読書会をしてきたのですが、開始前に早く席についた人たちと雑談をしていて、わたしと同じように長編小説を読めない期間があったという人がいらっしゃいました。
わたしはここ15年くらいの読書が技術書・新書・ドキュメンタリー・伝記・自己啓発書・エッセイばかりで、小説は読んでも短編小説か話題作かミステリーしか読んでいませんでした。他人の人生や物語に思いを重ねる余裕がなかったように思います。小説をまた読むようになったのは2013年くらいから。
新書や自己啓発書はわかりやすく「あなたに関係のあることですよ」というメッセージを出してくれるし、そもそも買う行為の時点で目的を持った関係性のようなものが成立していて、最近は同じ読書でもこれはコミュニケーションの修練にならないかもと思うようになりました。「わたしに役に立ちそうな話?」と前提条件のように確認するスタンスは危険をはらんでいて、自分を弱くしてしまうかもしれない。



 自分の今後のこと、自分の物語ばかり気にしていた



振り返って、そう思う。小説なんて読んでいられないような焦りがどこかにあったから。
でもそれは「人間には感情がある」ということを忘れてしまうことでもあって、わたしは反省をして、いまは小説を読んでいます。いろんな感情をみてみようと思って。
たまにブログや読書レビューに「自戒をこめて」というフレーズを見ると「それを書いてしまう時点で自戒から逃げているかも」というツッコミのような気持ちがわく。わたしは「自戒をこめて」と思う余裕もなく不快感満載のまま「なんでそこまでわたしのような境遇やネガティブさを、いやらしくほじくりかえしてくれるかね」と思っているうちに「わたしだけじゃ、ないんだな…」という気になって、笑いながら怒る人みたいにイライラしながら癒やされる人という状態になることがある。本をそんなふうに読むようになった。これはうまくのめり込めているということなのだろうか。最初から斜にかまえるのではなく、いったん思いっきりイライラしてみたりして二度三度読むという読みかたが定常化しています。

「この人、ややこしいなー」と思いつつ「あれ? これわたしでは」というブーメランをわたしは毎日確実に3つは飛ばしてイテテ…というひとりコントをしているのだけど、そういう感じを本の感想を通じて他人と共有すると、なにかが満たされる。それは家族や会社などの組織に所属することで得る帰属意識では満たせない独特なものなのだけど、そもそも日常社会には他人の思いをバイアス抜きに聞ける機会がないのよね。