うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

勉強の哲学 来たるべきバカのために 千葉雅也 著

本屋で冒頭を立ち読みしたらおもしろくて、ここ10年の間に自分に起こった変化を、まるでレントゲン写真を見ながら呑み込んだ異物を説明されるような気持ちで読みました。

わたしは長い小説を読めるようになったのが2013年頃からで、それまでは読めませんでした。このことについて、2016年に書いています。

この感覚を当時書き残しておいてよかった!


わたしは小説が読めなかった理由を「他人の人生や物語に思いを重ねる余裕がなかった」と思っていたけれど、そんなかわいいもんじゃなかった。
読めるようになったのはなぜか。この視点から探ってみたら、自分のなかの独裁者をひとまずぶち込んでおく檻を、いつの間にかこしらえることができていた。どうやらそういうことみたい。
補章の「小説的に世界を捉える」のなかに、こんな説明がありました。

特定の価値観から「裁く」ような発想で世界を見るのではなく、小説では、人のやることは両義的、多義的であると考えて、解釈の交差点としての「ただの出来事」を記述している。
 恋人からの言葉は、愛の言葉であると同時に、そこには何か自分を責めるようなものが含まれているかもしれない。どんな言葉にも出来事にも、自分にとってプラスとマイナスがどちらも含まれている。そこで、プラス、マイナスどちらかに決めつけようとするのではなく、両義性あるいは多義性の状態を許容する ━━ なかなかそれに「耐える」ことができない人もいるかもしれません ━━ のが文学的態度だと言えると思います。
 というかおそらく、この感覚がわからないと小説、とくに純文学というものがわからないと思うんです。エンターテインメント小説ならば、人のふるまいや出来事の意味を単純化することで成立しているところがあると思いますが、純文学では両義性や多義性が重視されていて、出来事をありのままの複雑さで ━━ 一方的に価値づけするような表現を避けて ━━ 書こうとします。

著者が途中で指摘する(━━ なかなかそれに「耐える」ことができない人もいるかもしれません ━━)は、まさに自分。小説が読めなかった頃のわたしです。


著者はそういう状態の人の頭の中をよくご存知のようで、こんなことをおっしゃっています。

 聞いたことがあると思うんですが、自己啓発書などで、「明日からあなたが決めさえすれば、あなたはそういうあなたになる」といった形で言われることです。
 それではマズいのだと僕は言いたいのです。
 このやり方では、何に決めてもいいことになるというのがポイントです。
(第三章 決断ではなく中断 アイロニーから決断主義へ より)

この少しあとに、どうしてそういうマズいことが起こるのかが書かれていたのですが、さりげない一行がいい。この先生の話しぶりは、太字になっている行ではないところが、すごくいい。

 


どうして決断に変な力が入ってしまうのかを見透かされたような一文がありました。

 ベストな選択をしようと無理をするからそうなるのです。

自分を決断主義に走らせる、あの漠然とした動力の存在。
ベストな選択をしたことにしたいという気持ちが存在するという状態(←ややこしい)というのは、わたしの場合は瞑想の練習で認められるようになりました。

完璧主義じゃないけど失敗したくない。そういう中間の欲の沼にいる自分には、「どっちも失敗だとして、どっちがまし?」みたいな声がけのほうが、実は有効なんですよね。

 


さて。話を戻します。

冒頭で、小説が読めなかった頃のことを書きました。
わたしが小説を読めるようになったのは、どうやら「小説的に世界を捉える方法」に移行できたためで、きっかけはインドでの特訓生活にあったようです。

以下のような、思考のパターンを壊す環境に身を置いたことがありました。

言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えられるのです。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのです。言語習得と同時に、特定での環境のノリを強いられることになっている。
(第一章 勉強と言語━━言語偏重の人になる 自分とは、他者によって構築されたものである より)

料理や美容などの技術を学ぶときにも、独特の概念や語り方による新たな言葉の世界に入るわけです。そのときの、言葉への違和感を大切にしてほしいのです。わざとそういう言い方をしているという感覚です。
(第一章 勉強と言語━━言語偏重の人になる 自分を言語的にバラす より)

この本では、同じことが第四章で方法論として語られていました。
そこでやってはいけないこととされていた思考もまた、自分がそれまでの読書でずっと「やってしまっていたこと」でした。

 まず、言葉づかいに慣れる。難しげな言い方が出てきても、「そういう言い方をするもんなんだ」と冷静に読んでいくこと。第一章で述べたように、新しい言葉づかいへの違和感を大事にします。その分野=環境における言い方=考え方のコードを、メタに観察するのです。
 そのために重要なのは、自分の実感に引きつけて理解しようとしないこと。
「実感に合わないからわからない」では、勉強を進めようがありません。
(第四章 勉強を有限化する技術 入門書を読む より)

この最後の二行は、わたしがインドで先生から何度も指摘を受けたことです。
質疑応答の場は開かれているけれど、「その質問は重要ではない」と言われ、先生は「わたしはそうは言わなかった」と、質問者が実感に引きつけているところに決して寄ってこない。この突き放しが、自分が普段から癖のようにやっている「同一化」を認識させてくれました。
もちろん逆もあって、わたしがなにげなく発した言葉がクラス内容の考え方のコードに合致したときには「その疑問は、とても大切な疑問」といって、急に詳しく説明が始まることもありました。

(思い出話はここまで)

 

 

この本で著者は以下のように書いています。二度目になりますが、先にも引用した箇所をもう一度。

エンターテインメント小説ならば、人のふるまいや出来事の意味を単純化することで成立しているところがあると思いますが、純文学では両義性や多義性が重視されていて、出来事をありのままの複雑さで ━━ 一方的に価値づけするような表現を避けて ━━ 書こうとします。

小説といわれているジャンルの中でも、この違いはかなり重要です。

わたしがかつて行なっていた、読書会(インドで受けた授業のあの感じを自分なりに日本式に再現しようとしたもの)の課題図書選びの境界も、まさにここにありました。

読者の被害者意識を肯定する方向に偏ったものや、断罪意識を助長するものは避けてきました。

 

著者はこの本のなかで ”自分なりに” 比較を引き受けて仮の結論を出すことについて触れ、これができないと決断主義に陥ってしまうと説明されています。
この決断主義への指摘は、付箋の箇所を何度も開き直すことになりそう。


なんとなく手にとって読み始めた本でしたが、勉強を題材にした心理学の講義を聞いたような気分。いろいろ図星でつらいのだけど、このつらさがわたしには必要です。

少し前に読んだ、里見弴さんの「文章の話」に続いて、また本屋でアタリを引きました。