夏に東京で久しぶりに「坊つちゃん」の読書会をやりました。「坊つちゃん」での開催は何度目かなので、わたしがかねてよりテーマとして設定してみたかった「怒り」にフォーカスをあてた構成で行いました。
ご案内の時点で、事前に下敷きのように念頭におくギーターの以下の節を、お伝えしていました。
感覚の対象を見 また思うことで
人はそれに愛着するようになり
その愛着によって欲望が起こり
欲望から怒りが生じてくる
怒りに気が迷って妄想を生じ
妄想によって記憶が混乱し
いままでの教訓を忘れ 知性を失う
その結果 人はまた物質次元に堕ちる(2章62節・63節 田中嫺玉「神の詩 バガヴァッド・ギーター」より)
「坊つちゃん」はいつも怒っているので、今回はこの流れに視点をおいてみました。
怒り→妄想→記憶が混乱→その結果…
この流れは、見事に先に引用したギーターのまんまのようにも見えます。
そして参加された方にたずねてみると、やはりうっすら気づいている人がいらっしゃる。
坊つちゃんは、冷静に分析できるところは、できているんですよね
他人が脚色した印象付けに対して、冷静に「そんなことはないだろう」と見ることができている部分もあるのです。
清という身内のお婆さんが、「坊つちゃん」に対して "兄弟のなかで親に愛されないかわいそうな弟" という設定にバイアスをかけるようなインプットをしながらやさしくしてくれる。そこを見ている。
第一章では、そんな冷静さを持ち合わせた青年の坊っちゃんが、自分だけに菓子や色鉛筆をくれる清に対して心の中でツッコミを入れています。
なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄ましたものでお兄様はお父様が買ってお上げなさるから構いませんと云う。これは不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺ていたに違いない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。単にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。
「坊つちゃん」は痛快小説として読むこともできるのですが、「記憶が混乱=贔負目は恐ろしいものだ」という視点で読むと、ちょっとこわい。
冷静であるということはどういうことかを考えるとゾッとするようなエピソードがある。
マンガのように楽しく展開する物語のなかで、清とは別のお婆さんに注目している人もいました。
その人が、教員として勤めている坊つちゃんに対して淡々と言います。
他人の転勤と、あなたの月給の変化は別の話だ
と。
そして、坊っちゃんに対して職場で月給の変化を告げる役割をする教頭(赤シャツ)もまた同じことを言います。しかも丁寧に、月給の変化のからくりまでしっかり説明してくれる。
でも坊っちゃんは
ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった
この印象をどうしても補正できない。
先に好き嫌いがあって、そこへ情報をどんどん付加するものだから、嫌いになる条件が重くなって身動きが取れなくなってしまう。
こういうことって、あるなぁと思うのです。
わたしが年齢を重ねるごとに意識する機会が増えているのは、他人の印象を固定しようとする行為は自分の中で起こるということ。そして、自分自身に対してもそう思います。「わたしらしく」「わたしらしい」という表現は、なにを固定したいのだろう。
それは、そうなりたくて仮縫いのように固定しようとする前向きな目標設定なのか、そうなりたくないのにそうしてしまう呪縛か。坊っちゃんには、サンカルパがなかったんですよね…。目標がないことを、以下のように片付けてしまっている。
(以下、すべて第一章から)
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。
今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。
これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。
生まれた時点で祟られた存在のように、自己を設定してしまっている。
ある人が、ここについて指摘をしていました。
坊っちゃんは愛嬌があって、周りからそんなに嫌われていないのでは
そう! そうなんですよね… と、うなずく参加者。
「坊つちゃん」は全体のトーンとしては、田舎で愛されイジられる都会のお坊っちゃん。痛快小説です。
勤務時間中に銭湯へ行ったり蜜柑の美しさを想像したり、松山という土地の懐へ入っていくそのふるまいは、なんとも人間らしくて愛さずにはいられない性質。
だのにーーー。なーぜーーー。
自分の置かれている状況が不遇であると感じるときに、教訓のように開きたい。人の心って、そんなに単純ではありません。
こんなふうにインド式で読むと、「坊つちゃん」はおもしろバイブル小説です。
(おまけ)
インド思想の視点で見る「怒り」にフォーカスをあてたトピックは「まろやかインド哲学」(別ブログ)のほうに書きました。
▼ほかの「夏目漱石読書会」トピックはこちらの下部にまとめてあります