うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分の感覚の短期記憶を保持するのがしんどい状態と、読書のこと

このブログを読んでくださってこれまでにお会いした方のなかで何人か、本が読めないというお話を伺ったことがあります。以前は読めていたのに読めなくなった、頭に入ってこない、目が滑るなど、それぞれの言葉で話してくれたのでよく覚えています。

 

わたしも20代で就職してから30代終盤までの間に、断続的にそういう時期がありました。今の感覚で過去を振り返って詳しく言うと、「よい本が読めなかった時期」です。
ノウハウ本や社会の変化を断罪してくれる新書、少女漫画を文章化したような本、なにも得ていないのに得たかのように全能感の世界へ誘い込むスピリチュアル本など、一人で完結する、横に広がりのない本ばかり選んで読んでいた時期がありました。

縦軸だけで生きていけるものならいきたいと思っていました。不平不満や悪口を言わないかわりに、望まない価値観を斬ってくれる他人の言葉を貪るように読んでいました。

呪詛をポジティブな建て付けにして媒体に落とし込んだ本って、特に新書に多いと思うのですが、あれは後で "ああいう本を読んだという行為" そのものを振り返って、そのとき苦しんでいた自分を再認識する。わたしの場合はそんな存在です。あれを読書にカウントしていいものか。

 


そんなわたしが、自我を横に置いておきながら本を読めるようになったのは、ここ数年のこと。 なので「本を読む」「本を読める」ってなんだろうと、いまでもどういうことかわかりません。

現実逃避でも知識ハンティングでも理論武装の武器集めでもない、おだやかな読書の感覚を得るまでに起こった変化を言語化するには、まだまだ時間がかかりそうです。

 

 

さて、ここから急に、話は昭和の時代へ飛びますよ。
わたしがこれまで、中身にどっぷり没入する読書を純粋に楽しんだ最初の経験は、学校の図書館で予約が大行列だった江戸川乱歩と、赤川次郎作品じゃないかと思います。巻末の作品名リストを見ては、もう本が出ないでくれ!(追いつけない!)と思っていました。
そのあとは、思春期の銀色夏生。不安だけど希望もありつつ、うーんでもやっぱりやっぱり不安!!! という心を写真に写したような不思議な文字列。同時期に『サラダ記念日』も流行して、この頃わたしは言葉の可能性に素直に感動していました。

 


今日はそんな昭和からこれまでのことを振り返って、いまこういう心の状態の人が多いのかもしれないと思ったことを書きます。
これはわたしの仮説ですが、本が読めないという状態というのは、こんな状態じゃないでしょうか。

 


   自分の感覚の記憶をジャッジせずにいったん置いておくのがしんどい

 


わたしの場合、特に30代のはじめ頃がそうでした。薄っぺらくやたらに反応する自分の感覚が、自分でも目障りな感じでした。社会に適応するために「ちゃんとリアクションをする」という日常の心がけが頭の中に侵食していました。

なので、バシッと結論づけてくれる本や、著者の提示する価値観へ誘導してくれる本に頭をあずけてしまうほうがラクで、むしろそうしたくて本を読んでいました。


近頃の自己啓発本やノウハウ本には、最初から蛍光色でラインが引いてある編集デザインがされたものがありますね。あれは、かつての自分の状態を思うとうまい売り方です。「ここ、ここだけあと1分覚えていられれば大丈夫よー」「この気持ちを3秒保持できていれば、あなたはまだ大丈夫」という誘導のしかた。
そして実際大人向けにそういう本が増えているのは、思いをいったん置いておく状態をつらいと感じる人が多いということじゃないかと思います。
これは先日、数ヶ月ぶりにオフィス街のTSUTAYAへ行った際に店内で感じた高揚感と安堵感から考えたことです。自己啓発本に囲まれて、全身でそれを感じました。懐かしいワクワク感に包まれました。

 

 

でね、そりゃそうですよ。(なんと今日はここから開き直りますよ!)
効率化、○分でわかる、○○ハック、○○まとめ、なんて言葉が溢れていたら、言語化できない感情をたくさん持っているのは損なんじゃないか、自分は無能な人間なんじゃないかと思うさ、そりゃ。

わたしが長編小説やテーマのある本を読めるようになった境界は、これが実は逆であることに気がついたあたりから。それまでは、効率!スピード!わかりやすさ最優先! みたいなところがありました。

 

だがしかし。駄菓子菓子。

ついついダジャレを言いたくなる年頃になったあたりから、考え方が変わってきました。

これはあらゆるコミュニケーションに言えることかもしれませんが、やっぱりどうも、そうじゃない。実生活でも読書でも、同じことが言える。

 


  大切なことは、ズバッとわかりやすく書かれたりしない

 


大切なことを知るには、経緯も含めて理解する必要がある。だからそれなりに長くなるし、冗長さにも意味がある。その言葉を残した人の心に対する、当たり前にあるべき敬意が根本的に欠けている、そういう俗物的な自分にも気がつきました。
なので「本が読めない」という状態は、読んで首狩りをして並べるような読書をするより、人間として謙虚な状態なんじゃないかと思います。名刺集めをしにセミナーや懇親会に行くように読書をする人よりも、信用できる。

本を読むことに対してすら「読書術」「読書をする人だけがわかること」「世界を変えた経営者は読んでいる」だなんて、どこまで行くの。

 


20代〜30代の前半って、自分の未来を考えたときに絶対に頑張るべきタイミングは今だという気持ちが強くいから、薄っぺらくてもなにかしていないといられない、そういうところがあります。身体的にも、それは自然なことだと思います。
でももしあなたが今もうその年代でなく、自分の「読めない」という状況を見ているのだとしたら、以下のことに向き合う機会かもしれません。

 


━━ 今日の本題は、ここからです。
前置きが長いですよね。そりゃそうです。経緯があるんですもの。

 

識字できるのだから文字は読めるはず。なのに本が読めない。なぜか。
本を読みながら起こる障害は、瞑想の最中に障害になるものとよく似ています。

 


 ジャッジされないまま存在している(   )の存在を気持ち悪いと感じる

 


この(   )に入るものは、自分で言語化してください。
百恵ちゃんの『美・サイレント』方式です。ヤングにはこの方式がわからないかもしれませんが、検索でもなんでもして、ついてきてください。ちなみにこの時の百恵ちゃんは20歳です。超ヤングです。びっくりです。

 

 

話が大幅に逸れたようで、逸れていません。今日の話は長いんです。
頭の中でいつもジャッジされないまま存在している(   )
その存在は、どんなもの? 過去のこと? 未来のこと?
わたしの場合は、過去のこととも未来のこととも言えない、こういうものであることが多いです。

 


  自分が自分に投げかける、思わせぶりな欲求

 


自分はこうしたいんじゃないか、ああしたいんじゃないか。こうしたかったんじゃないか、ああしたかったんじゃないか。こうしたらいいんじゃないか、こうしたほうがよかったんじゃないか。
瞑想中に起こる想念を分解すると、心にはこういう性質があることが示されてしんどいのですが、読書中も文字を追いながら並行してこれに似た思考が走っています。
いったん置いておかないといけない感情がどんどん存在させられることになります。

 

 

わたしが思うに、”読めない” の最中に起こっている苦痛は “感情が存在させられる” ことによるものではないか。自然に起こる感情よりも、起こされていると思う感情のほうが多い状態。わたしは多くの人が、これに苦しんでいるのではないかと思います。
そしてこう書くと、「自然に起こる感情ってなに?」と質問したくなるでしょう。自然に起こる感情は言語化できません。トーンとか調子のようなものです。

 


大人になると社会のルールをたくさん知ります。環境ごとにマナー・ノリ・常識・商慣習も違います。それに加えていまは品行方正であるべきトーンや調子を乱すと自分でドキッとしてしまう、そんな生活です。わたしは先日、ゴミ捨てに行くときにマスクをするのを忘れてドキッとしました。
そんな日常の中で、”感情が存在させられる” 瞬間は負担。キャパ・オーバーを避けるために起こっている拒絶と考えるほうが、わたしの感覚では自然です。

 


だからいま本を読めない人も、ここ数年読めていない人も、そのままでいいと思います。きっとあとで振り返ることができます。いまはルールを感じなくていい「読み」を楽しめばいいのです。このカレーを食べるとどこの毛穴が開くかを読むとか、この麺を食べると体温が何度上がるとか、そういう読みでいいと思います。

 


もちろん、ヨガをして自分の身体の感覚を読む、というのもよいと思います。
どこまでが自分の調子・感情で、どこからが外部要因に誘発された調子・感情なのか、続けていると境界が少しずつ見えるようになってきます。そして、境界があることを認識しながら自身と影響し合うことがありがたく感じられる、そんな瞬間が少しでもあればいいんじゃないでしょうか。
わたしはヨガの楽しみも読書の楽しみも、共通してそこにあると思っています。

 

 

開脚して、じーっと前屈するだけでもいいのよ〜

 

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