うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

いいことをしていると思うことのこわさ

「いいことをしている」という高揚感の中でバランスを欠いてくとき、人のこころの中では、なにが起こっているのだろう。
友人のように付き合えていたヨガインストラクターが、ドボン、ドボンとそこへ飛び込んでいく。これはどういう現象であろうか。すぐ横を流れているかもしれない、草に蔽われた川の存在を確認するような気持ちで、ちょろっと覗き込んでみる。
ヨガのインストラクターが苦しそうになっていく様子を観察していると、バランスを欠いていく過程で「つなぐ」「架け橋」「愛」という言葉をよく使っているように見える。


わたしはヨガのクラスをやっていても「悪いことにも繋がる可能性のあることをしている」という意識が、どこかにあります。オウム真理教のニュースを社会人になる前からジャブジャブ刷り込まれていたのが、小さなブレーキの役割をしているのかもしれません。無条件で「いいこと」「いいにきまってる」「悪いはずがない」ことがあるとしたら、それは原理主義っぽくて危険な思想と考える。
そんな素地があった上で、ヨガの練習や学習を日常に取り入れて10数年。これだけ警戒心があっても、わたしはその間にさまざまな解釈違いをしてきました。
以下は4年前に書いた気持ちで、いまとなっては文章的に雑と感じるのですが、今でもページビューの多い記事です。



ヨガが上達して性質が濃く出る時期の話



これは当時のわたしでないと書けなかった文章。いまはこういうトーンでは書けません。
「若かったんだなぁ」と思うけど、書き残しておいてよかったと思います。


わたしはヨガの指導もしますが、「楽しかった!」と激しく言われると、それ以外の日常とのコントラストが強まりすぎてしまわないかが気になります。「今日の経験が "余剰エネルギー消化+α" 程度で終わりますように」と思います。
人の意識は瞬間瞬間で転変します。「わたしはいい機会を得た。あの人や、あの人よりも恵まれている」という高揚感で火がついたエネルギーは、他の場面で正義をふりかざす行為に転化される可能性を同時に抱えることになります。



 自分のなかの火種を見慣れる



慣れる。慣れていく。こういう法則や摂理の学び(ダルマというのですが)に楽しみを見い出せるようになることが、ヨガの醍醐味と思います。
ネガティブな自分におどろかない。もともと持っていたものだから。忘れた頃にカバンのポケットから出てくる、溶けて変形した飴のようなもの。


ヨガの練習の段階では、いろんな角度で自信を得る感覚に遭遇します。そこで喜びとともに「これまでできなかったことを、その都度、なにの・誰のせいにしていたのだろう」と振り返るようにします。そのプロセスをすっ飛ばして「いままでできなかったのは、環境や指導がよくなかったからだ」「評価されないのは、周りのレベルが低いからだ(高いからだ)」と結論づけてしまと、「はいもう一周!」となって、なかなか次へ進めない。←というのがよい練習。
「なにかの・誰かのせいにしていたのではないか」という、自己批判的な振り返りが大切とわたしは考えています。
なんだけど…
教祖はささやきます。



ψ(○ `∇´ ○)ψ

そうだよ。周囲は、あなたの「ほんとうの能力」がわからないんだ。
あなたは、もともとは、すごい人なのに。

щ( ̄∀ ̄)ш



なんちて、ね。
わたしはたまに「あ。いま、この瞬間だ。教祖になる人って、ここでスッと、こんなフレーズを入れるんだろうな」なんてことを思いつきます。アーサナの合間に、フツーに思いつきます。長く広告の仕事をしていたので、そういうのと同じ感覚で思いつきます。「いまここにこのコピーを入れたら、かなりクリックされる!」みたいな感じで。
実感として、ヨガとカルトはめちゃくちゃ相性がいいと思います。フレーズを入れるタイミングがすごく多い。成果として感じたことを本人が言語化できそうだけどしていない瞬間に、スッと入れるとクリックされる。なので、そこにはいつも自己批判的な目線を忘れないように気をつけています。
手先足先を使うものはなんでも、継続してりゃあ、それなりにうまくなる。それが摂理(ダルマ)。
天意を、まるで自分が決めたことのようには話せない。なので「いいことをした」と思うことは、これからもずっとないようにしなくちゃいけないんだ、と思っています。