うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガは薬。腐り止め怒り止め狂い止めとして作用する

今日のタイトルは薬の「痛み止め」と同じように、止めは「どめ」。
わたしはその日の練習が「腐り止め」になる日もあれば、「怒り止め」になる日もあれば、「狂い止め」になる日もある。そんなことをここ10数年で感じてきました。

変化を嫌う気持ちがあるときにヨガをすると心の中のドロリとしたものが流れ落ち、新しいものを受け入れる準備ができるような気がするし、イライラしているときにヨガをするとそれまで怒りに注いでいた余ったエネルギーが減って、もう思考を止めて休みたいというところまでもっていける。
散漫な思考をこねくり回して起きてもいない物語のなかで狂っているときにヨガをすると、自分の肉体の半径1メートルの世界、マットの上の世界だけに限定して物事をとらえ、自分に戻れる瞬間がある。


「腐り止め」と「怒り止め」は、トリグナでいうとタマスとラジャス。
わたしはこの中間で狂いのような感覚がヨガで収まると感じることもあります。
このからくりは、バガヴァッド・ギーターの第2章62節・63節で説かれています。

人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。(62節)
怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破壊する。(63節)
(上村勝彦 訳)

第62節は「腐り止め」と「怒り止め」。
第63節の段階が、まさにわたしの感じている「起きてもいない物語のなかで狂っている」という感覚。

 

 

腐り・怒り・狂いの瞬間からの変化の具体例

ヨガをはじめてから5年くらいの間に同じことが何度かあって、気づいたことがありました。
その頃わたしは渋谷駅の近くで練習をしていたのですが、わたしがよく使う出口には「手相の勉強をしています」と声をかけてくる人がいて、たまに声をかけられました。
ああ今日もいるな…、くらいに思う日が半分。でも機嫌のよくないときは以下のように散漫な思考をこねくり回して、起きてもいない物語のなかで怒り狂っていました。

 

  • 手相を見るだけで済むの?
  • なにか後ろ暗い理由があるんじゃないの?
  • いまここでやるの? 何分? どんな勉強してるの? 情報が足りない!!!
  • わたしが女性で低身長で地味な服装でぼんやりし顔だから狙ったでしょ!
  • いまついて来てるこの歩調のスピード、速い! あなたのそのやる気はどこから?

 


── そら狙われるわ!

 


とまあ、そんな精神状態で練習へ行くわけです。
で、練習の後にはわたしが変わっている。帰りも話しかけられるんです。
でも、わたしが変わっている。手相の人に声をかけられても

 


 なにか、この人なりの理由があるんだろうな

 


と、こうなっているのです。
ああ、だからヨガをする人はシャーンティだのなんだのというのかと、5年くらいかけてゆっくり理解しました。
わたしは「シャーンティ」と「いいことをする」は単純にイコールではないと思っているので、声をかけてくる人が「いいことをしたいと思っている」とは解釈しません。
ただ

 


  なにか、この人なりの理由があるんだろうな

 


と思うのです。
この状態でいることだけでも、けっこうむずかしい。

 

腐り(あるいは粘着)の元をたどって考え直す

腐り(あるいは粘着)→怒り→狂い のプロセスをよくよく見てみると、わたしは「自分が舐められている」という物語にするために、状況認識の要件を集めて怒り狂っていました。
そこに材料を寄せて自分で火を起こして風で煽る、そういうことをしていました。そこに意識を傾けていました。偏っていました。
この感情を煽る「風」にあたるものがなにかというと、差別感情です。
街で「手相の勉強をしています」と道行く人に声をかける目の前のこの人よりも自分は有意義な人生を送っているはずとみなした上での差別感情。いまここでそうしているあなたとは違って、わたしはこれからヨガの練習に行くのですがなにか? という傲慢な気持ち。ヨガの練習に行くと会える素敵な人たちの存在イメージの力を借りて、相手を下に設定するという「みなし行為」をしていました。
自分もヨガやそこで会える人の存在を心の拠り所やにしているにも関わらず、他者のそれを見下していました。自己の足場の脆弱性と差別感情は、とても相性がいい。

 


いろいろうじゃうじゃ書きましたが、このような火だるまの状態も、練習をするとどこかスッキリします。そして同じ物事に対して「なにか、この人なりの理由があるんだろうな」と認識できるようになる。
これはヨガの効用であり、薬になる部分だと思っています。長年続けている人にはうなずいてもらえる話じゃないかな。みなさんの事例をきいてみたいくらい。

 

なんらかの紆余曲折でヨガから離れたくなった人は、ヨガをも自分をいじめる材料にしてしまう、そういう状況を経験したのかもしれません。そういう人に対して、わたしは「まあまあ。それはそれとして、またやろうよ」という気持ちでいます。

同じ行為をすることに飽きるのは記憶の作用・自然現象だと思うので、それについては「またやろうよ」という気持ちは起きません。

 

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カレーじゃありません。漢方薬です。

 

追記:この話は1年後にもう少しまじめにコンパクトに話せるようになったので、こちらに書きました。