うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「雑念がなくならないんです」という申し立てに対して、いまのわたしが思うこと

これは数年前のことですが、瞑想がうまくできないという意味で「雑念がなくならないんです」という話をされたことがあります。
そのかたはどこかでティーチャー・トレーニングを受けたり、熱心にヨガについてのことを学ばれているようでした。わたしのところへいらしたのは2回くらいだったのと、年数が経ったこともあり、ヨガの様子までは覚えていません。
今日はこの、何年も前に言われたことについて思うことを書きます。


わたしはそのとき、スラスラと回答できませんでした。問いかけの熱量がつかめなくて。
そして、こういうことじゃないかという考えのまとまりは、数年後のいま起こりました。わたしはいつも、テンプレートのような答えをしないように心がけていて、そうすると突発の個人単位の思いであるものほど、滑らかには答えられないんですよね・・・。

 

 

━━ そんなこんなからの、今日は「雑念」についての話です。
これはわたしの経験から思うことですが、雑念というのは「自分の行為」と「他人の行為」に切り分けることで広がりの見込み在庫が変わってくる。


自分の行為については、ある程度のところで思考材料の在庫としては天井がありますが、漠然とした不安の海に自己を溶かすと液状化したような状態になります。
他人の行為については天井がなく、対象を増やし続ければ見込み量はどんどん増え、会ったこともない他人についてまで広げれば青天井です。
他人の行為ありきで考える自分のことも、どこかで断ち切らない限り、延々ぐるぐるできてしまいます。


これはわたしが瞑想を自分で仕切り直すときのやり方のひとつですが、自分がいま想起していること「自分の行為についてだろうか?」「いつのことだろうか?」と確認すると、他者との関係性ありきのことであったり、自分のことであっても今はどうしようもない、未来か過去のことばかりです。


自分の行為にカウントできないものは、瞑想をしている現時点では妄想。自分の行為にカウントできるものは意思で、その中間くらいにあるのが計画や企図。
中間のものにはポジティブな面や乗り越えたい課題もあるので、それはそれで、コンディションの良い時に考えようとか、今日の終わりにお風呂で考えようとか、適切なタイミングで取り組むアジェンダとして切り分けます。

 

んでね。
冒頭に登場したようなかたのおっしゃる「雑念がなくならないんです」は、わたしの経験に照らし合わせて言語化すると  "主体性・覚悟が立ち上がりません"  という状態じゃないかと、そんなふうに思います。

 

わたしの感覚では、思考は  "対象のピックアップ"  あるいは  "意識の分配"  の連続。

後者(意識の分配)は身体を使って神経回路をフル回転させることで御しやすくなるので、後者からコントロールして、その影響を前者のほうにも広げていく、そういうアプローチが可能と思っています。

意識の配りかたを整えることで、ピックアップしたくなる対象のバランスも整う。

 

 

話を少し前のフォーカスポイントに戻します。
冒頭のご質問に対して、それは “主体性・覚悟が立ち上がりません” という状態じゃないかと思ったという話です。
これは、日常的に漠然と夏休みの宿題のようなものをいくつも抱えているような、そんな感じ。
でね、これなんですけど、それは責任を果たそうとしたり何者かであろう(あるいは、そうなろう)としている証拠というか、同時代を生きるわたしとしては応援する気持ちしか湧かない状態なので、お声がけがむずかしいです。
「わたしたち、社会のなかで生きようとしてるね!」くらいしか、言えることがないのです。


世の中に指導者やメンターを求める人がいる以上、なかには子供の宿題を代わりにやってあげる親のようなことをする人が、もしかしたらいるのかもしれません。
そういう存在を渇望している人は、意外と少なくないんじゃないかと思います。回答を決めてくれて、自分は回答を書くだけ、でも、書いたのはわたし! みたいな状況。

これは自分にも経験があることですが、社会のなかで、若いときほどそういうチャンスをもらえることがあったりするもの。なので、なんか漠然と期待しちゃうんですよね。その人は当時30歳くらいに見えたので、その頃ってなんかそういうふうになったりするものだ、というのも感覚的にわかります。

 

 

で、その時、そういう姿に直面して、わたしはスラスラ答えられなかったわけです。
わたしだって日々「社会のなかで生きようとしてるね!」以外の言いかたはないものかと、模索はしておるのですよ。
ヨガに限らず他の分野の本を読んだり、歴史や風土も含めてインドで生まれた思想について学んできました。これはこれからも毎日やり続けますが、その上で、2021年のいま、思うことがあります。

 


いまの社会は「自分らしく生きる」とか、その環境整備の課題として「多様性の実現」が是とされる流れに見えるけれど、そもそも主体性・覚悟を立ち上げ続けるのって、しんどいんです。
インド思想の本に出てくる「多様性」は、今の社会のニュースや政治家の発言で使われている範囲とは全く違うので、そもそも「しんどいはずですわよ」というところからはじまっています。

 

なので、雑念がなくならない自分を ”ヨガも瞑想もしているのに雑念がなくならない自分” と思うのではなく、雑念はいくらでもある前提で、だからヨガをしているのだと、まずはそこを切り分けないと、ヨガがどんどん苦しいものになります。

練習と "それをしている自分"  を同一視している瞬間は、ヨガを技術・ツールとして理解してない瞬間でもある。


「雑念がなくならない」と自分をジャッジする想念が起こったら、もう一人の自分が「お疲れですね」「まあ○分休みましょう」と、同じ高さの視点で一緒に座って、1分でも5分でも、空白を空白で埋め続けるのが瞑想のはじまり。眉根を寄せるのではなく、眉毛を離して、少し口角も上がるやさしさを外側からこしらえていきましょう。

「お疲れちゃーん」(←サラサラのワンレンをかき上げながら)くらいの感じでいいんです。

そういうふうに捉えるところからですよと、冒頭の人に当時スラスラお答えできなかった回答を、いまここに書いています。

 


瞑想中の雑念について、その時のその人の状況を読み取ってぱっと答えるのはむずかしいです。
わたしの場合はこのように、説明の流れをまとめるのに時間がかかる上に、文章もとても長くなります。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。

(サラサラのワンレン部分については、世代ごとに自由にアレンジしてください)

 

 

<余談のようなリンク>

今日の内容を最後までゆっくり読んでくださった方へ

上記は、わたしが昨年受けた授業からの掘り下げです。