うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

視点や発言の背景まで捉えられるようになりたくて

昨年からあまりバスや電車に乗らなくなったので、読む本が変わってきました。夜に用事がなくなったので、ときどき映画も観るようになっています。
わたしは通勤がいいなと思うのは、毎日なんとなく世の中の動きを観察できることで、これがないと一部で起こっている現象を大きく捉えがちになります。


日々ニュースを見たり読んだりするとき、現実以上にものごとを悲観的に捉えないようにするためには、雑な結論に引っ張られないグリップ力が必要です。

なので、通勤中やお昼休みの外出で "いまここを歩いている人たちはどうだろうか"、という視点を持てたことが現状の理解に大いに役立っていたと、いまさらながら気がつきました。

 

こういう感じは、ヨガの練習の中にもあります。上昇のエネルギーよりも、ここは安定を促す力(アパーナ)が重要という瞬間があって、そこがしっかり意識できると中間(サマーナ)が自然にはたらき、混乱にのまれない状態に持っていける。そういう瞬間の身体経験記憶があると、心の状態に対しても「あ、いまいいところにいる」というのがわかるようになります。
妄想に意識を持っていかれてしまうのは、「いま、いいとこ」を認識できないために流されてしまう状態。わたしはそんなふうに捉えています。なので、ヨガクラスでは「いいとこ」の再現の練習のために、最後に瞑想を持ってくるようにしています。

 


上に引きあげたり下にグラウンドしたりの中間に居られる感じは、ものごとの判断のあらゆる瞬間にあると感じます。わたしはその再現性にずっと関心を持っています。いつでもスッとそこへ行けるようになりたくて。
わたしがヨガを始めて7年続けたあたりから少しずつ長めの小説が読めるようになってきたのも、身体を扱う意識の変化の効用ではないかと思っています。

判断を保留しながら物語を追う力がついた、すぐに結果を求めるのではなく、参加し続けられるようになった気がします。それまでは消費の感覚が強い読書でした。

 


それまでのわたしは、その先で得られるものをわかりやすくほのめかし続けてくれないとついていくことのできない、頻繁に撒き餌がないとダメな感じでした。

それ読んでなんかいいことあるんでしたっけ? 要約サイトとかないんですか? と真顔で言うような、効率至上主義の人間。まあこれは、若さでもあったのかな。
それが、いまは撒き餌がわかりやすいほどシラケるようになりました。以前のほうがマーケティングや集客の仕事に向いていて、いまのほうがブランディングやデザインの仕事に向いている、そういう性質の変化。外から見たらあんまり変わらないように見える範囲の変化です。短期的な視点で見たら、これによって失ったものも多くあるように思います。


いまは、いろいろな人の視点や発言の背景を捉える力を鍛えたくて、長い本を読むようにしています。自分の中に「これはあの物語にあった、あのことと似ているな」と思える参照データを蓄えたい。
長い経緯のあるものであればあるほど、短絡的な判断を避ける力がつくように思うのです。

 

 

 人生は、実は長い。

 

 

この現実を前に、自分なりに時間の連続性を捉えなおす練習をしています。
そして長い小説を読めるようになったら、映画のすごさがわかるようになりました。時代や地域性や言葉の変化、社会インフラ、生活用品、服装、個人の生い立ちや宗教観、それぞれのTPOにいたるまで、映画は人格形成にまつわる情報の補強力がすごい。
危険なメソッド」「紙の月」など、いくつかの映画がそれを教えてくれました。今年はいよいよ、映画の「ガンジー」も観てしまおうかと思っています。


わたしはこれまで自分の意識を使って物語を味わうよりも、武装として消費し食い散らかしている部分が多かったように思います。
いろいろ遅い目覚めですが、人生は長いから、それでよいのかもしれません。