ヨガの考えごとは動きながらすることが多いですが、おとなしく考えることもたまにあります。
つい最近、ことばについてモヤモヤ考えたことがありました。
野心とかバイタリティとかそういう話です。
「野望」と「野心」が違うのは、なんとなくわかりますよね。「野望」のほうは、近年は信長のイメージが強くなりすぎですけどね。矢沢栄吉さんの「成り上がり」みたいなのはこの中間くらいに位置するのかな。
「野心家」と「上昇志向の人」になると、ちょっと区別がわかりにくくなってきますね。若者が朝活するのは、この中間くらいに位置するのかな。
「野心家」と「目立ちたがりの人」、「目立ちたがりの人」と「承認欲求の強い人」の関係になると、前者ほどオフィシャルっぽくて後者ほどドメスティック、くらいの感覚でしか説明できなくなってきます。
「承認欲求の強い人」と「美魔女」になると、今後も日本語ネイティブとして生きていけるか不安になるほどわかりません。
なんでこんな話をしているかというと、わたしのことをこのように言う人がおり
「ヨガのクラスのときは、しゃべるのね」
「普段はゆるキャラなのにね」
「あの間に、そんなこと考えてたのか!」(あとでブログを見て言われる)
そんなに普段は雑か(笑)。
わたしは、ふだん力を抜いているわけではなくて、いちおう少しは考えています。
しゃべることは、すごく頭のカロリーを使うと感じています。なので、アーカイブとしてできるだけ書くようにしています。いろんな人に同じ話をするよりも、同じ人にいろいろな話をするほうが楽しいと感じます。そうすると数の原理で多くの人に関わる方向ではなく、狭い範囲でいろんなことをすることになります。
まえに、こんなことがありました。
イベントの企画をしている人から、地方のとてもおしゃれなヨガスタジオでクラス開催をしないかと言われて、あまりピンとこないので「なぜ、わたし?」と答えました。その人とはいろいろな話をするのですが、「うちこちゃんはネガティブなところも持ち味になってるよね」と愛情たっぷりに評され(笑)、「ヨガイベントいいですね! どんどんつながりましょう。内容はおまかせします」という対応をする人のことを「バイタリティがある」と表現されていました。
ことばの定義でいうならば
わたしも、バイタリティは、あるよぉ〜。
と思っています。
その恒常性みたいなものは意識して整えるようにしています。「この人数でこういう設定なら、移動の疲労を鑑みても最低でこのくらい、最高でこのくらいのことができそうだ」という計算は、土台に安定したバイタリティがないと見積もれません。なので、バイタリティは、それなりにあると思います。活動予定の計画のしかたは競馬の予想と似ています。競走馬もジョッキーも一人二役でやる感じ。体力が「馬」で、それ以外の対応が「騎手」。アーサナクラスは「芝」、哲学クラスは「ダート」みたいな感じです。
わたしに少ないのはバイタリティではなく、たぶん
山気(やまけ・やまき・やまっけ)
というやつだと思います。
でもこの日本語、いま日常で使わないんですよね。夏目漱石グルジの小説にはけっこう出てきます。
わたしは、いくらやる気に満ち満ちているといっても、人間の身体の部分は物質なので、たくさんやったらパフォーマンスが下がると考えます。そういう意味で、慣れや相乗効果、プラシーボ効果のようなこころのはたらき(モーハーやマーヤー)は上手に使いたいと思います。
わたしはバイタリティがある♪
たぶんバイタリティがある♪
あるんじゃないかな♪
まちょっと無理する覚悟はしとく♪
というくらいの、「関白宣言」ならぬ「がんばる宣言」に近いちょっとしたやる気は、あるの。
あるのよぉ〜。
(ラストがヤングにわからないネタでごめんなさい!)
<おまけ:バイタリティたっぷりのお知らせ>
ヨガのクラスのときは、動きながら回りながら、ときどき逆さまになりながらしゃべります。
⇒東京にいるときは、単発完結のヨガクラスをやっています☆
人生初ヨガの人もどうぞ。スタジオはおしゃれですが、わたしは安定してこんな調子です。
(クラスの前に、動きながら考えています@市ヶ谷)