地方でコミュニティを主催している友人と「なにかを運営する側になると、欲深い人を見たときに苦しくならないためのことを考えるようになるね」という話をしたときのこと。ドライブをしながらいろいろな話をしたのをふと思い出しました。
わたしはネットのコミュニティ・サービスの裏側でさまざまな状況を見てきたので「こういう行為をする人は◯◯%は、いるものなのねぇ」というあきらめに似た感覚が身についてしまっているところがあり、言葉だけの意志表明は聞き流してしまうところがあります。それは妄想であって行動実績ではないという情報処理。そんな経験のせいか、リアルに人が集うヨガクラスでは「結果を出す人に対して、自分がどういう行動でフィードバックをしようか」と考えて実行することが楽しみです。
めちゃくちゃ仕事モードで(企業勤めのOLとして)スキルやノウハウを伝達するセミナーの仕事をしていた時も「この場でこういう行動をするこの人に、いまこういうフィードバックをしたい」と思ってもできないことがたくさんありました。いま自分で開催するヨガクラスではそういうフラストレーションがなく「あなたは、こうしましょう。だってこれができるんだから」と言えることに自由を感じます。五感を今まさに一緒に使っている瞬間に伝えられるのがうれしい。
冒頭に書いたわたしの友人は、自分が届けたいと思っている内容とは違う要素が相手の中で大きいこと(お得な要素があるなら行くとか、本題とはずれた理由)を知ってしまうことを残念に感じているのかな、と自己分析していました。
この自己分析のプロセスは、わたしも過去に覚えがあります。10年以上前、ものすごいヨガブームで毎日体験の人がやってくる教室でクラスを受け持っていたときのことです。体験でも真剣に取り組んでいるように見える人に会うたびに、この人にとってヨガはどういうものであろうかと妄想し、期待していました。
そして、以下のような対比で「志」を品評していました。
真剣 ⇔ 軽薄 習慣化 ⇔ 暇つぶし 吟味 ⇔ 食い散らかし
このような対比で見ては、心のなかで態度を品評していました。この人にとってはファッションなのだろうな、というような疑いの視点。いうなれば以下のような二元論で。
必ず身に着ける下着のようなもの ⇔ たまに身につけるアクセサリーのようなもの
ファンデーションを塗るような行為 ⇔ 流行りのポイントメイクのような行為
体験する側にしてみれば「どっちでもないわ! 時間もあったし安くてお得から来ただけよ!」という話なのに、「この人にとってヨガはどういうものか」だなんて校長でも経営者でもないわたしが勝手に妄想して(無駄な正義感)、ロッテンマイヤー化がどこまでも暴走しまくった後で(義憤の燃え広がり)、以下のことに気がついたのでした。
真剣にしても、チャラいにしても、
片方だけってことは、ないだろう。
片方だけだったら、なんかヘンだ。
下着をつけていないのに高級なマフラーを巻くのは変態っぽい。
いい下着をつけているけどパッと見て全く冴えないのも悲しい。
ファンデーションは塗っているけどトーンが一律でカレイみたいだと人間らしくない。
忘年会でおじさんが女装芸をしたような、口紅だけ塗って勢いづいた感じもイタイ。
── バランスを欠いたものは、いやなのです。わたしは「ダサくてもいい」という開き直りやふて腐れの方向に向かっている気質を見つけたときに、自分で「それは "シンプル" とはちがうぞ」とつっこむことができる状態を健康な状態だと思っている。自分のなかにある、そのような複雑な価値観に気がつきました。
それまでのわたしは、自身の価値観のゆれを棚に上げてジャッジをしていたのでした。複雑な価値観を探ることを後回しにして義憤を振り回していました。言うなれば本質依存症。わたしにも、そういう時期があったのです。
冒頭の例で友人と話した「苦しくならないためのことを考える」というのは、「自分の好みを見極めることを怠らない」という努力。自分のなかで他人を欲深いと感じる境界も細かく変化しているから、その都度見極める。そうすると、根底にある複雑な価値観が見えてくる。
友人には「主催者とはいえ、聖人キャラを自分にこすりつけるのだけはやめたほうがいいよ。狂うから」という話をしました。