今日の話は、わたしがヨガを始めて1年くらいの頃に生徒として行ったヨガクラスでのある出来事と、その後の考えについて書いています。
その日は夜に参加したヨガクラスで、インストラクターのかたが「みなさんお疲れさまです」というあいさつと「情報化社会で、さまざまな情報に振り回されがちですが」なんていう導入からクラスがはじまりました。
そのとき、わたしは反射的に
急いで仕事を終わらせてすっきりしに来たのに
いきなりオピニオン聞かされるとか、疲れるわー。
と、まさにこの改行のリズムで「社畜乙って言われてる感じ…」という反感を抱きました。「社畜乙」というのはネットスラングです。当時のわたしは脳内言語がネットスラング化していました。そういう条件反射をしがちな人格が養成されていました。
乙は「オツ」で「おつかれさま」のカジュアルな略語。「乙」はちょっと見下すときに使われます。わたしの反応を翻訳すると、「会社で家畜のように夜まで働いて、おつかれさまでーす」と言われたような気分になったのでした。わかっているんです。自分が卑屈だと。クレーマー的思考であると。それこそまさに、そのインストラクターのかたがおっしゃるように、情報に毒された現代人そのまま。
卑屈であることを自覚しながら脳内変換した情報を処理する作業は、視覚的にヘルシーでラグジュアリーな空間であればあるほど、当人には拷問です。
そのヨガスタジオのあった街は東京都港区。いうてみればあってもなくてもいい広告や、それと大差ない情報を取り扱う仕事をしている人がわんさか働くエリアの夜のクラスで、いまそれ言う? あなたいまここでそれ言う? と、自分のクレーマー思考を正当化するための論理も猛スピードで立ち上がってくる。
別にいいじゃん。コミュニケーションって、そういうものじゃないの。ただのアイス・ブレイクのトークじゃないの。一般的な話をしているだけじゃないの。と、いまでは当時の自分を振り返って気の毒がることもできるけれど、そうなるまでに10年以上かかりました。そしていまは、当時の自分を自分で気の毒がるようになったらおしまいだなとも感じています。ポジティブ風情で反省+クロージングしておけばいいという壮大な思考停止にだけは陥りたくない、そんな強い思いがあります。
その十数年の間に考えたことは、なんとなくそれらしいフレーズだけで構成された話というのは聞き手のコンディションに左右され危険だということ。かつてのわたしのように、鈍性と激性を主要素とする余剰エネルギーを孕んだ練習前のタイミングでの会話は、話す内容に気をつけなければいけない。
固有名詞で言えないことは抽象化しつつ、その性質について精確に語れるようになることの大切さを思うとき、わたしはよくこの日の自分を思い出します。
かねてよりの不満が愚痴やボヤきでなくオピニオンという形で漏れてしまう。わたしはこれをまずいまずいと思いながら、いまでも油断をするとやります。今日書いていることだって、その要素を孕んでいる。
シャーンティなムードのなかで潜在的な山っ気を抑制できずに唐突にポジティブなキャンペーンをはじめるヨガインストラクターを見るたびに、これ制御が難しいやつなんだよな…と自分のことのように思います。擁護も協力もしないけど、批判もしない。
自分に向き合うって、こういうことです。
自分に向き合うって、けっこうエグいんです。
でもこれが、ヨガの醍醐味です。