うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

もしも、Kがまっすぐにふられていたら(夏目漱石「こころ」読書会での演習より)


山本七平の日本の歴史」を読んだら、また「こころ」熱が再燃してしまいました。
これは東京でも神戸でもやった演習。『夏目漱石作品をヨーガ心理学で読む会』では、参加者の vasana(仏教では「習気」「薫習」、ヨーガでは潜在記憶) と smrti(記憶されているもの) をキーに漱石グルジの意図を勝手に追いかけます。
演習は、唐突なわたしの問いかけからはじまります。これは、インドで哲学を教わったときの問答形式を再現しています。

 もしKがうまいことお嬢さんに告白する機会を得ていたとします。
 あんな間取りでなかったとして。
 そこのうえで「ごめんなさい」と言われたとする。
 ちゃんと告白して、ふられるのね。
 そうなったら、Kは、どうしたと思う? 


まずは東京編。どん。


  • 目が覚めて、元気になると思う。精進の足りなさによる落ち込みから立ち直る。神経衰弱する前の状態に、行き勇んで戻る。やっぱりこれこそ、俺の道だったんだと。
  • すごく落ち込んで、ホームレスみたいに、あの家を着のみ着のまま出て行くと思う。捨てられた犬みたいになっちゃうと思う。
  • ふられたことは、それはそれとして、先生との友情はそのままにすると思う。
  • とにかく衝動的に出て行って、先生とはもう一切連絡を取らないと思う。とてもプライドの高い人だと思うから。「求道・忠誠心」を大義名分にして出て行くと思う。恋をしたことを恥じているから。やっていることはかっこ悪いのに、先生の世話にもなってるのに、そういうことをすると思う。
  • 人間が丸くなる。尖ったものがなくなる。ストイックになっていたときに誰かを好きになって、しかもフられて、俗に行けるのではないかと思う。自分が作った枠から外れて自由になれる。自分で自分を認められるようになる。
  • Kは先生に応援してもらえることを期待していたと思う。自分のためになんでもしてくれると思っていたと思う。その期待があったと思う。なのでここで先にフられたら落ち込むし家も出て行くけど、先生に「一緒に出ようぜ」と言うと思う。「あの女はバカだ。俺たちは出て行こう」と。
  • Kの焦点は恋の成就よりも「告白」にあって、いままでの自分を壊すことにあったと思う。なのでその後お嬢さんがどんな反応をしようとどうでもよいのだろう。自己愛のあてどころに他人を使っているだけだから。いずれにしてもそのあとに「仕事を探す」と思う。自分でお金を稼ぐということが、彼にとっては大きなテーマだったと思うから。
  • 元気になって、もとのKに戻ると思う。先生に言ったのは、先生に応援して欲しかったのだと思う。

同じテキストを読んでいるのに、投影している人物像が違う。自分の中から引き出される潜在印象は、明確に覚えている人生経験だけでなく、何かを見聞きしたときに刻んでいる感情の記憶の癖が出る。参加者それぞれが抱く「K」「先生」「私(ヤング)」の純粋性のグラデーション設定が微妙にずれていて、ハッとしたり、影響されたり。
ほかの人の想像を聞いて、「あたし、Kのこと過剰に繊細な男と思っていたかも……」と言い出す人がいたり。この日は、直前にわたしが「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」を紹介していたこともあり、Kとジョージを重ねている人が何人かいて、シタールからギターに戻るジョージ・ハリスンだ! ということになったりもしました。


「もともと、先生に先に言おうと思っていたんじゃないか」「応援してもらえると思っていたのでは」というのはわたしには全くないイメージだったけど、そういえばそうかとも思う。わたしはいままで恋愛に友人がからんだことがなかったのでイメージができなかったけど、そういうことってあるかもね。
なんつー感じで、人の説を聞くことで自身の「判断の癖」「ジャッジの癖」があぶりだされる。ああおそろしい。東京は「ふられてBANZAI」なモードの人が多かった。






つぎ、神戸編。


  • まっすぐな人なので、平常心じゃないかな。
  • 家を出て、学校もやめて、どこか遠くへ行ってしまうでしょう。
  • 失恋を理由に死を選ぶと思う。いずれにしても死を選ぶ人なんじゃないかなと思う。常に死ぬタイミングを見計らっている人に見えたから。
  • わたしも(先のかたと同意見で)死を選ぶと思うのですが、Kにとってはもともと恋愛をすること自体、消したいような過去で、やってはいけないことだったと思うんです。しかも告白して、さらに失恋して……って。なので自分が思ったことから外れていることに立ち戻って、それを思って死を選ぶのでは、と思います。
  • 告白した時点で、Kはかなり変わった段階に居るはず。結婚する意志があるということだから。人生のなかで否定してきたことをひっくり返して変わろうとしているから、わたしはKは生きると思う。
  • 実際告白してみて、いろいろなことが、生き方が変わると思う。
  • 家を出て、遠くでお嬢さんを一途に想い続けると思う。とにかく、一途な感じがするから。
  • とりあえず家を出る、そして、、、。わたし、Kには関心が向かないですねぇ……(笑)。

「一途に遠くから想い続ける」というのは東京では出なかったなぁ。純愛に縁のない女性が多かったのだろうか。これ以上書くとあとで怒られるのでやめておく。「常に死ぬタイミングを見計らっている」というのは、東京の別の演習で出たことがありました。



このように、ほかの人の想起するストーリーを聞くことは、「入ってきた情報と、ものごとの関連づけかたの癖 ⇒ こころの癖 ⇒ 意識のはたらかせかたの癖」を知る機会になります。演習をしているときは和やかに進むけど、ひとりになったときに思い返すと、身近な人から受けている影響に気づくこともあります。わたしはこの「関連づけかた」がポジティブかネガティブかということを、その人の善し悪しとは関連づけません。個人的には、ネガティブな紐付けができる人のほうが学ぶチャンスが多いと考えています。これは、「性格が悪い方が小説家に向いている」と言われるようなことと似ているかも。
わたしはそれよりも、このはたらきを観察する上で「自身の経験と結びつけるか」「直接誰かから聞いた話と結びつけるか」「メディアや本などで得た情報と結びつけるか」の違いを自身が認識できているかのほうが、人生をより主体的に考えて生きているかをはかるうえで重要と考えています。わかるかな、この感じ。
わたしはこの読書会を始めてから「お互いが主体的に考える意識の交換」の瞬間に立ち会う機会が増えました。人生観と哲学の境界はとても微妙だけど、人生観を語る方向に傾くことのないバランスを保つことができるとき、土台となる夏目漱石のテキストの偉大さに気づきます。グルジの性格の悪さに感謝感謝であります。


▼関連補足